◆ Infomation
昨夜はスーパームーンだったそうです。
雨が上がって深夜に外に出てみましたが、時間がずれたせいか普通にお月様でした(笑)。
でも雨上がりの空はスモッグが流れて綺麗ですよねー。
今回は私の超・個人的な話になりますので、全ての方に当て嵌まる訳ではないことをお断りしておきます(でも、多分ほぼみんなそうだと思います…と、注釈を付けておきます)。
これまでの人生体験の一体どこまでが記憶だったか、どこからが願望実現なのか、っていうのを振り返ってみると、全部記憶だったな。と思うのです。
それなりに生きておりますが、私はこれまでにっちもさっちも行かない八方塞りの時が何度かありまして。
あーもう無理。あかんわ。本当に無理。終わったー。
っていう時が何度もあったんですね。
所謂様々なジャンルの『トラブル』以外にも、(専門家の方以外は殆ど信じて下さらないのですが)私は生まれつきどういう訳か身体が極端に弱く、大怪我を何度もして来ており、体力も普通の人の半分以下。
頑張ろうとしても下地にあたる体力が無い為、直ぐへばる。動けなくなる。倒れる。
突如、何の前触れも無く身体異常が出て、身体の一部が変形したり、身に覚えの無い現象が度々発生。怪奇現象ですよー。
…という残念な身体を、どうにか一時的にでも持たせて下さるボディワーカーの先生と出会って、メンテナンスをして頂いたことがありました。
それでキレイに治った訳ではないんですが、重篤な症状が出た時に施術して頂いた時等は、本当に助かりました。
また、意味不明な災いがどんどこ押し寄せて頭がおかしくなりそうだった時に、助けて下さる霊能の先生との出会いがあったりもしました。
所謂直接的な『修行』は特に意味が無いのでしていませんが、「いずれ分かる日が来る」と言われてそっちの世界のルールや事例をみっちり沢山教えて頂きました。
かなり年月が経って、「あの時、先生が言っていたのはこういうことか…」と大分遅れて理解したことが山程あります。
自分の人生を振り返ると、本当に酷い有様だったなあと呆れますが、そういった良い出会いの体験が挟まったりということもあったので、
「でもああいう風に助けて下さった、教えて下さった方に出会えた」
と、大変に有難く思っております。
しかし。
あれも今思えば記憶の再現だったのでした。
いえ、有難いは有難いことなんですよ。それは間違いなくそうです。
でも記憶の再現だったのか…と思うと、唸ってしまいました。
自分の中を検証することを何年も何年もしつこく続けていると、「あっ! え!? あれも!?」っていうことが沢山ありまして。
そうすると、あの時もあの時も「助けてー」と天に向かってヘルプコールをしたから願いが叶えられた訳じゃないのねー。ということになります。
更に運とかでもないです。ていうか"運"て何。って感じです(笑)。
単に自分の中にある思考のことを世間では運と呼んでいるだけですね。
あの時、物凄く迷って悩んで決断したと思ったことも、嫌になって逃げてしまったことも、その結果も、あの時の挫折も苦痛も、こうしなきゃと思っていたことも、この人生の私がリアルタイムにその都度体験したことだと思い込んで生きていましたが、全然違いました。
ぜーんぶひっくるめて、自分の中にある、過去のプログラムを再生しているだけだったのかと思うと、「なーるほどー」です。
同様に、これでもかー! みたいなトラブルの連続も、「は? え? 何これ? え? 何で? はい?」という目が点になるような出来事の連続も、それに対する自分のリアクションも、勿論過去のプログラムを再生していたのでした。
私は大きな物欲や「こうなりたい」的な欲があまり無いまま成長したのですが(そんなことよりこの滅茶苦茶な人生をどうにかしたかったので)、稀にちょっとだけ「あれがいいなあ」と思うと、なれたりしたこともあります。願望実現っぽいやつです。
しかし今振り返ると、それらの体験も織り込み済みでございました。
能動的に願わなくとも、結果そうなるようになっていました。そこで既定の記憶を再生し、プログラム通りに体験したのでした。
各種占いである程度その人の特徴が出たり、人生のイベントが割り出せる理由は、それらが全て過去だからこそでしょう。
「だから『もしも』は無かったし、他の道は無かったってことだなー」と頷いております。
プログラムだからどれだけ文句を言って楯突こうとも、ただその通りにしか再生されず、進まないのです。
自分で考えている、と思っている状態すらプログラムの再生状況です。
では抑々、「あれがいいなあ/ああなりたいなあ/これが欲しいなあ」といった考えは何処から来ているのか? という話になります。
それこそ記憶です。実は今、存在していない過去、記憶によって「あれが欲しい」「これが好き、嫌い」「辛い、苦しい」「嫌だ、認めない」と言っており、それが今の自分という個体の考えであると、私達は信じて疑っていません。
「ところであれは何なのだろう」「これはどう説明が付くんだ?」
という風に、何年経っても腑に落ちない体験が私の中には物凄く大量にあり、残念ながらご説明頂ける方にもなかなか出会うことが出来ませんでした(説明されても当時は理解不能だったでしょう)。
「なんでこんなんなの? 何が原因なの?」という行き場の無い疑問をずーっと抱えていましたが、スッキリして納得したい私としましては、そこを追求したい気持ちが常にありました。
で、時間を掛けて独学で勉強していたというお話です。
色々調べ続け自分の検証を繰り返し続けた所、一部の先生方が教えて下さっているように、
『全ては過去であり、記憶の再生をなぞっているだけでしかない。これらを手放さないと本当の自分に戻れない。幸せなど有り得ない』
というのが真に正しい、という結論に達しまして。
少なくとも過去の人生は全部記憶だったことが判明して納得してしまったので、やっぱり他に可能性とか無かったじゃん…『今』『自分』を生きてなんかいないんじゃん…はあああ~……そうですかそうですか~……って(笑)。
それからは、出来る限りどの瞬間も「今、何の記憶を見ているんだろう」と疑うようになりました。
過去の記憶であることは間違い無いし、何処に居ようが記憶を見てしまうのは確実なので、ただひたすら理解が速まるようにクリーンにし続ける、という作業をコツコツして来た次第です。
段々と自分のクリーニングに慣れて来ると、「……あ! あれか!」と、記憶の出所に気付くまでの時間が速くなり、手放せるまでのスピードも上がるのだなーというのが私の実感です。
今後も一つずつ見直し、手放して行く作業を続けて参ります。
生きて行く上で、『心の空きスペース』が多いに越したことはありませんから。
雨が上がって深夜に外に出てみましたが、時間がずれたせいか普通にお月様でした(笑)。
でも雨上がりの空はスモッグが流れて綺麗ですよねー。
今回は私の超・個人的な話になりますので、全ての方に当て嵌まる訳ではないことをお断りしておきます(でも、多分ほぼみんなそうだと思います…と、注釈を付けておきます)。
これまでの人生体験の一体どこまでが記憶だったか、どこからが願望実現なのか、っていうのを振り返ってみると、全部記憶だったな。と思うのです。
それなりに生きておりますが、私はこれまでにっちもさっちも行かない八方塞りの時が何度かありまして。
あーもう無理。あかんわ。本当に無理。終わったー。
っていう時が何度もあったんですね。
所謂様々なジャンルの『トラブル』以外にも、(専門家の方以外は殆ど信じて下さらないのですが)私は生まれつきどういう訳か身体が極端に弱く、大怪我を何度もして来ており、体力も普通の人の半分以下。
頑張ろうとしても下地にあたる体力が無い為、直ぐへばる。動けなくなる。倒れる。
突如、何の前触れも無く身体異常が出て、身体の一部が変形したり、身に覚えの無い現象が度々発生。怪奇現象ですよー。
…という残念な身体を、どうにか一時的にでも持たせて下さるボディワーカーの先生と出会って、メンテナンスをして頂いたことがありました。
それでキレイに治った訳ではないんですが、重篤な症状が出た時に施術して頂いた時等は、本当に助かりました。
また、意味不明な災いがどんどこ押し寄せて頭がおかしくなりそうだった時に、助けて下さる霊能の先生との出会いがあったりもしました。
所謂直接的な『修行』は特に意味が無いのでしていませんが、「いずれ分かる日が来る」と言われてそっちの世界のルールや事例をみっちり沢山教えて頂きました。
かなり年月が経って、「あの時、先生が言っていたのはこういうことか…」と大分遅れて理解したことが山程あります。
自分の人生を振り返ると、本当に酷い有様だったなあと呆れますが、そういった良い出会いの体験が挟まったりということもあったので、
「でもああいう風に助けて下さった、教えて下さった方に出会えた」
と、大変に有難く思っております。
しかし。
あれも今思えば記憶の再現だったのでした。
いえ、有難いは有難いことなんですよ。それは間違いなくそうです。
でも記憶の再現だったのか…と思うと、唸ってしまいました。
自分の中を検証することを何年も何年もしつこく続けていると、「あっ! え!? あれも!?」っていうことが沢山ありまして。
そうすると、あの時もあの時も「助けてー」と天に向かってヘルプコールをしたから願いが叶えられた訳じゃないのねー。ということになります。
更に運とかでもないです。ていうか"運"て何。って感じです(笑)。
単に自分の中にある思考のことを世間では運と呼んでいるだけですね。
あの時、物凄く迷って悩んで決断したと思ったことも、嫌になって逃げてしまったことも、その結果も、あの時の挫折も苦痛も、こうしなきゃと思っていたことも、この人生の私がリアルタイムにその都度体験したことだと思い込んで生きていましたが、全然違いました。
ぜーんぶひっくるめて、自分の中にある、過去のプログラムを再生しているだけだったのかと思うと、「なーるほどー」です。
同様に、これでもかー! みたいなトラブルの連続も、「は? え? 何これ? え? 何で? はい?」という目が点になるような出来事の連続も、それに対する自分のリアクションも、勿論過去のプログラムを再生していたのでした。
私は大きな物欲や「こうなりたい」的な欲があまり無いまま成長したのですが(そんなことよりこの滅茶苦茶な人生をどうにかしたかったので)、稀にちょっとだけ「あれがいいなあ」と思うと、なれたりしたこともあります。願望実現っぽいやつです。
しかし今振り返ると、それらの体験も織り込み済みでございました。
能動的に願わなくとも、結果そうなるようになっていました。そこで既定の記憶を再生し、プログラム通りに体験したのでした。
各種占いである程度その人の特徴が出たり、人生のイベントが割り出せる理由は、それらが全て過去だからこそでしょう。
「だから『もしも』は無かったし、他の道は無かったってことだなー」と頷いております。
プログラムだからどれだけ文句を言って楯突こうとも、ただその通りにしか再生されず、進まないのです。
自分で考えている、と思っている状態すらプログラムの再生状況です。
では抑々、「あれがいいなあ/ああなりたいなあ/これが欲しいなあ」といった考えは何処から来ているのか? という話になります。
それこそ記憶です。実は今、存在していない過去、記憶によって「あれが欲しい」「これが好き、嫌い」「辛い、苦しい」「嫌だ、認めない」と言っており、それが今の自分という個体の考えであると、私達は信じて疑っていません。
「ところであれは何なのだろう」「これはどう説明が付くんだ?」
という風に、何年経っても腑に落ちない体験が私の中には物凄く大量にあり、残念ながらご説明頂ける方にもなかなか出会うことが出来ませんでした(説明されても当時は理解不能だったでしょう)。
「なんでこんなんなの? 何が原因なの?」という行き場の無い疑問をずーっと抱えていましたが、スッキリして納得したい私としましては、そこを追求したい気持ちが常にありました。
で、時間を掛けて独学で勉強していたというお話です。
色々調べ続け自分の検証を繰り返し続けた所、一部の先生方が教えて下さっているように、
『全ては過去であり、記憶の再生をなぞっているだけでしかない。これらを手放さないと本当の自分に戻れない。幸せなど有り得ない』
というのが真に正しい、という結論に達しまして。
少なくとも過去の人生は全部記憶だったことが判明して納得してしまったので、やっぱり他に可能性とか無かったじゃん…『今』『自分』を生きてなんかいないんじゃん…はあああ~……そうですかそうですか~……って(笑)。
それからは、出来る限りどの瞬間も「今、何の記憶を見ているんだろう」と疑うようになりました。
過去の記憶であることは間違い無いし、何処に居ようが記憶を見てしまうのは確実なので、ただひたすら理解が速まるようにクリーンにし続ける、という作業をコツコツして来た次第です。
段々と自分のクリーニングに慣れて来ると、「……あ! あれか!」と、記憶の出所に気付くまでの時間が速くなり、手放せるまでのスピードも上がるのだなーというのが私の実感です。
今後も一つずつ見直し、手放して行く作業を続けて参ります。
生きて行く上で、『心の空きスペース』が多いに越したことはありませんから。