◆ Infomation
春と秋の気温の変化って一か月の間でも急激で、いつも「あれ? あれ? あれ?」って感じです。
今日は内観して行く内に『突き当たる壁』について、です。
願望を達成したいというような、あくまでも自分の外側の出来事をコントロールする何か"だけ"に特化してスピリチュアルに取り組んでいる人は、今日のお話はご興味が無いと思います。一応、念の為。
大概の人がそうだと思うのですが、自己理解の道に入って入口から暫くは、「自分の外側で何が起きた」とか「自分が嫌な思いをした、辛い思いをした」というようなことにフォーカスが続きます。
あとは、「こうなりたいのに、なんでなれないんだろう」といったことですね。
さてさてそんなことを続けて行く内に、いずれ『自分がどのように生きて来た(いる)か』に目を向けることになります。
いつも、何十年も無自覚に行って来た言動や態度のあれこれを、細かく見直して気付くことになるんですね。
それにより、実際に他人様にどのような影響を与えたか、実はどのような心証を持たれているか…つまり『現実の自分』に目を向け、気付き始めます。
大体、いつも私達は
「自分はこう思われているだろう、その筈だ」
と、自分の考えをアテにして他人様から実際どのように思われているか――――自分が実際は何をしているか――――を見ないように誤魔化しています。
自己観察、内観をして行く中で、事実(結果)は自分のこれまでの主張と真逆だったとか、抑々自分が予想を遥かに超えてヤバかったとか、イタい…ということに気付き始める時が来ます。
長く自己観察を続ける場合は、その「うわー」が何度もあるかも知れません。
脅かす気は全く無いのですが、大体自分については間引きしたり甘く見積もるのが人間です。
特に、長い間ずっと自分自身を振り返らずに、自分にとって都合の悪いことを置き去りにしてご都合的に生きてしまうと、自分での見積もりと事実のギャップが激しいでしょう。
現実をここで受け入れられない場合、必死に言い訳を始めたりします。
「だってこれまで指摘されなかった」
「そんなに酷いとは自分で思ってない」
「生活していて困っていないからいいんだ」
「誰々はそんなこと無いって言ってくれてる」
等々。
ここで自分を見ることを止めてしまう人も沢山います。
確かに嫌だろうなーとは思います。
見たくないものを放置してずーっと逃げて逃げて誤魔化して来たのに、何で態々自分でヤバいことに気付かなきゃいけないんだと。
確かにねー…嫌でしょうよねー。
自己理解の道って、恐らくは世間一般で言う幸せに対する『逆走』なんだろうなと思います。
行き着く先は喜びや幸福やラクではありますが、そのプロセスで「自分や事実を見るのが嫌で、目を背けたくなる」時が来ます。
どんなツールを使おうが、どんな先生の元で学ぼうが、自己理解を求める限り、そこは変わらないと思います。
自分を、して来たことを、事実を、本当のことを見たくない、認めたくない…という理由で長い間突っ走っていたのを、自分でブレーキを掛けて引き返し、戻り、手繰って行く道が自己理解、解放です。
自分の意思でUターンをすること。来た道を戻って行くその道中で、自分の間違いを目の当たりにし、心を糺すことです。
とは言え、その途中で耐え切れずに足を止めてしまうことも、大いにあり得ます。
そこで注意したいのが、
「嫌だから認めない」
「見たくない」
と言って逃げてしまう時、結果は『そのままで居続ける選択をしている』ということです。
ざっくりで言うと、例えば『自分がものすごく性格が悪いことに気付いて来た…』という状態だとして、「そんなに酷くない! もっと酷い奴は居る!」とか言って逃げちゃうと、結局自分自身に手を入れることは無い訳ですから、自分がものすごく性格が悪い状態を延長します。
事実から逃げる時、誤魔化す時、外側の誰かや何かを否定し攻撃する時、私達は物理的にそこから離れられたかのような錯覚を起こします。
しかし実は逆で、そこに密着した状態を自分で選んでいることになるんです。
でも自分(主観)では「考えないようにする」とか「他の人に自分を褒めちぎらせる、否定したいことを否定して貰う、言って欲しいことを言って貰う」等の工作を行うことによって、ちゃんと距離を取れたような、誤魔化せたような気がするんですよね。気のせいなんですけど。
つくづく、否認の思考ってトリッキーだなと思います。事実と妄想を自分の中でだけ、逆転させるんです。
妄想では距離が離れて無くなったことになっている。
でも現実では続けている。だからこっちが自分の選択の結果であり、事実です。
『それを認めない』『抵抗する』というのは、『自発的にそれを続ける選択をした』ということです。
嫌だ嫌だと言い続けることで、その(大概は不快な)状態を続ける選択をしている。
「嫌だ」と言っても対象物が変わることは絶対にありませんし、ただ自分だけが不快な状態が続きます。
…ということは、自分はこれを続けたいのではないか? という風に考えてみると、また角度が変わるんじゃないでしょうか。
若しくは、「あれ? 変わらないんだ。じゃあ結局は見て、認めるしかないのか…」でもOKなんではないかと。
事実って一つの出来事につき一個なので、「見方によって本当のことが変わる」とかって、無いんです。
但し、正しく見つめることで、「それまで解らなかった本当のことに気付く」という変化は有り得ます。
つまり自分の視点やものの見方、解釈が正しい方向に変わっただけなのであって、対象が変化したのではないんですよね。
これは長いこと学んで来て、私が理解に至ったことの一つです。
Aという先生の所で○○について何かお話したとして、「そりゃあなたが間違ってるわー」と言われ、認めたくないからB先生の所で同じことを伝えて、その先生は「そうなんですね、大変でしたね。あなたは悪くないんですよ」と同意して下さったとしても、だからって実際の事実は変わらないということです。
自分では「こう思いたい」という内容があるとして、必死に理論武装をしたり色々な言い回しを使ったとしても、事実がそうであるかはまた別の話ですね。
誰が何を言おうがどれだけ否定をしようが、セーフはセーフ、アウトはアウト。間違いは間違い。事実は事実。
…ということなのですが、私達は何かとこの『不動の事実』に対してどういう訳か楯突こうと必死に人生を浪費しがちです。
でもやはり、どれだけ抵抗しようと、変わらないものはずっとそこにあり続けます。転生しても変わらないんです。
いつそれを認めるかだけ、なんでしょうね。本当に。
そんな訳で、如何に時間を掛けて誤魔化しても、やっぱりいずれは本当の所に立ち返るしか無いんだなー、というのが私の気付きです。
自分の中にある「あー嫌だなあ…」「何とかしなきゃ」「どうしよう」という反応に騙されず、淡々と「認めなければいけないこと、気付く必要があること」を見つめ続ける毎日を歩みたいと思います。
Sachi
- 2018.10.30
- Tue 05:06
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コメントありがとうございます
>としぼうさん
コメントありがとうございました。
『気付く』時、納得している・腑に落ちているといった体験に自身が移行しているかどうかが重要です。
心が平和な状態で静か・落ち着いている、ということですね。
心のフラットな状態の中で、「あ、あれやってみよう」「あそこに行こう」と思うなら、
それはインスピレーションですので、その通りにされたら宜しいと思います。
気付いたけど、そわそわする、落ち着かない、何かしなきゃ…という感じがするなら、
それはまだ気付くべきことが控えているということだと思います。
「○○をすれば良い」という手段を探すのではなく、
常にご自分の心の状態に注目されると良いと思います。
心が落ち着いていて平和な状態、平安な状態にある時は、
自分があるべき正しい状態だということですから、より良い情報が入って来るでしょうし、
或いは自分が何かインスピレーションを受けて行動しようと思い立つこともあるかも知れません。
偶々立ち寄った所で何かを見つけるかも知れません。
しかしあくまで無理せず、頑張らずに、でも綺麗に流れに乗っている、
自分が流れの一部になっている…という感じです。
分かりにくいかも知れませんが、ご参考になれば嬉しく思います。
としぼう
- 2018.10.29
- Mon 10:53
- URL / Edit
57JCgJLU
はじめまして。
恐れていることが認めたくないことだった、と気づくだけでOKなんでしょうか。その後何かのアクションを起こしたほうが変化の度合いが加速するのかしら?