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Date : 2013年06月

◆ Infomation

【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2017年8月13日・9月3日・10月8日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。全て11時~15時です。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

現実の全てが自分の意識の現れである。


というのを前提に日々の生活を送っている中で、
「前だったら苛々してただろうな」
というようなことも、同じように起こっています。

無くならないんですよ。様々な出来事自体はね。
大きなブロックに関連するパターンなんかは、一つずつ手を付ければ解消したり消えたり、また姿を変えたりということもありますが、現実自体は毎日あるのですから、何も起きなくなる訳ではない。

というか、嘗てはエゴが何でもないことであっても、「ふざけんなー!」と怒る為に怒っていたということですね。
エゴを基点にエゴを自分だと思って、そして正しいと思って生きていると、必ずそういう風に何でもないことであっても無理矢理食ってかかります。

でも「これって自分なんだもんなー…」ということになると、腹を立てるかどうかのボーダーだったような事象でも、笑いこそ出るものの怒りは以前のようには沸いて来ない有様です。



その上、ちょっとした"トラブル"があっても、ほぼ「あー…」で終わり。
何か他人様の関わることで、以前だったら何となくイラッとしたかも知れないことでも、半笑いで終わり。
…というのがものすごーく多くなります。
腹を立てる理由の殆どが消失するのです。便利。

とは言え、この考え方は現実云々と自分の意識の関わり合いについて、ある程度ちくちく突き詰めて行かないと…全然意味わかんね。ということになりかねないので、人それぞれスタンスがあって良いと思います。


うちにお越し下さっているお客様曰く、
「今まで周りに対してあらゆることで怒っていて、自分をよくも怒らせたなと言って色々な要求を突き付けていましたが、周りが自分だとすると一体何の為にやっていたのか……」
とか何とか。

ですよねー。
エゴ的には『他人』とか『外の世界』という風に分けておかないと、生きる意義を喪失しますよねー。
全部セルフだったとか、有り得ないですよねー。


物事の捉え方を180°転換したのですから、暫く混乱は続くものと思われます。
人間、行ったり来たりするものですよ。
変化の前には混乱するというのがお約束ですからね。
それまで使い古していたエゴが、あらゆる手段を以て「前の方が正しいんだって!」と叫ぶので。
これにどう対処するかで、行くか戻るかが決まります。

行くならば新たな結果を取る決断を、どの瞬間もし続けること。
戻るならば、考えることと意識的に自分を見ることを止めれば良いだけです。
選ぶのも、その結果を引き受けるのも、全ては自分しかいません。
その後、結果を誰のせいにしようとも。
自分の人生は自分しか生きることが出来ないし、他人になることは不可能です。


常に決断する権利、選択する権利が我々にはあります。
混乱中はグラウンディングが特に重要になるので、瞑想お勧めですよー。
呼吸を深くすることだけでも心がけると、ラクに次のフェイズへと移行出来るんじゃないかなと思います。
ラクになりましょー。







そんな中。
今日も今日とて「そこに山があるからだ」的な作業は続く。



クッキーサンド



クッキー的な何か。




実寸はマッチ棒の半分サイズです。ちっさー。
あ。マッチ棒が普通よりでっかいとかじゃないですから。


一番最初作っていたモノは、この3倍程度のサイズのだったんですが…。
段々と作って行く内に小さく小さく~。


何故小さくしていくのか自分。
いや、どの程度までなら小さく行けるのかと…思い始めてしまい…。







まだ暫定の状態ではありますが、仮にという形で完成形っぽくしてみるとー。
これはいずれこのようになる予定(↓)です。


クッキーサンド


クッキーサンド



チョコチップミントのアイスクリームと、ストロベリーアイスクリームの挟まったクッキーサンドです。
100円玉サイズの(笑)。
ちゃんとアイスクリームにはチョコチップとストロベリーの果肉(のようなもの)が入ってます。
細かい作業の割に、実物だと見えにくいんですけどねー。



このヒト一体何やってるんでしょ……。
と、幻聴でも聞こえて来そうな時があります。

でも楽しい。そして堪えきれない。
そこに作りたいものがあったら手が伸びるとしか言いようがありません。
もう少し精巧に出来るようになりたいなー(何を目指す気なのかと)。



まだまだ完成の道は遠い。




瞑想に最近使い始めたCDが、インサイトです。



こちらは雨音バージョン、波音バージョンとあるようですが、比較的評判の良かった波音バージョンをば購入。



Insight CD Tranquil Ocean Waves (インサイトCD~波音バージョン)Insight CD Tranquil Ocean Waves (インサイトCD~波音バージョン)
(2008/11/01)
Immrama Institute

商品詳細を見る




普通に再生すればただ波の音だけが聞こえるトラックが3つ入っていますが、可聴領域外に幾つものバイブレーションを入れてあるそうで、聴きながら瞑想することで潜在意識を揺さぶるギミックが仕込んであります。
故に、再生機器の再生方法が重要で、可聴領域外の音をカットしてしまうデータ再生法では、折角の効果が薄れてしまうらしく。

そして、聴き方(使い方)には厳密なルールがあります。
先ず最初の数日はトラック1のみを聴く。
所定の日数をこなしたら、次のステップへ……という感じです。

CDを買うと、Amazon経由のメールで取説が送られて来るので、それに従って使用して下さいませ。
使い方を誤ると、人によっては気分が悪くなったり、体調不良を訴えることもあるそうです。




私が使ってみた所では、聴き始めて一週間弱の間(トラック1のみ聴いていました)は、「脳の中が微弱にザラザラする感じ」という印象を受けました。
多分、聞こえない部分のバイブレーションで、潜在意識の情報に揺れが生じているのだろうと思いました。

10日ほど経った頃は、このような自覚症状的なものは消えました。
象徴的な夢を見たりとか、私にしては感情が揺れやすくなったりという方向へシフト。
何か浮いて来てるのかも…と思いつつ、継続。


そして、最近では瞑想以外の時間に『現実と自分の意識を隔てていた壁が消える感じ』が時々あります。
「これ本当に現実なのかな…夢の中なんじゃないか…」という風に。
逃避とは違うので(何故言い切れるかと言うと、逃避している時の自分もよく知っているからです 笑)、最初の頃は不思議な感じがしました。

実際、夢を見ている時はその中が現実だと思い込んでいますし、大きく感情が動いた時なんかは暫くその影響を引きずります。
で、起きてやっと「あれは夢か」と自覚するのですが、どっちも意識としては"現実"という認識をしているので、実質変わらないっちゃ変わらない訳です。

何となく夢の続きをずっと見ているようなとでも言いましょうか、現実という感覚が非常に薄くなって行く瞬間が、一日の間に何度かやって来ます。
自分の意識が全てを作っている、というのを前提に生活しているせいもあるでしょうが、相乗効果なのか何なのか…とりあえずはまだこの状態でちょっとゆらゆらしています。



基本的には瞑想用のCDなのですが、色々手元を動かしている時に聴いたりもしています。
単調な作業の時は、脳波が変わりやすいので。

瞑想することに慣れている人にはお勧めかな、という風に思っています。
引き続き使用してみてまたご報告出来ることがあれば、blogにupしますね。





雨音はこちら。

Insight CD (インサイト CD~雨音バージョン~)Insight CD (インサイト CD~雨音バージョン~)
(2007/04/01)
Immrama Institute

商品詳細を見る




その他、フォーカスというシリーズもあります。
集中して作業したい時にお勧めなのだそうです。
私は使っていませんが、お仕事や一人で作業することの多い方には良いのかも知れませんねー。

Focus CD (フォーカス CD)Focus CD (フォーカス CD)
(2007/04/01)
Immrama Institute

商品詳細を見る




気になる方は『商品詳細を見る』をクリックしてAmazonへどうぞ。
レビューには色々書いてありますが、人それぞれの使い方や使用感があると思うので、お試しになってご自分に合うものを見付けるのが一番宜しいかと思います。
何事も、やってみないと分かりませんからね。









で、こんな感じのモノを作ったりしているのですが。


マカロン(?)


マカロ……ん(?)。
4センチ位かな。かわゆいサイズです。
これより一回り大きいのもあります。

渋めの色のとか、美味しそうに見える色とか、それこそマカロンカラーとか。
作っている間にモヤモヤと「あ…あれも」と横道に逸れたりしています。いつも通りぃ~。
まだまだ制作中なので、もう暫く後に全貌が現れるかと……だといいな(笑)。





『他人様の幸せを祈るワーク』というものがあります。



基本的に人間の大半は、"自分が如何に得をして満足をして損が少なくて、そして良いこと(人によって内容は違うでしょうが)がどれだけ多く体験出来るか"に日頃の意識が向いています。
それは当たり前のことです。

ただこれに執心して、偏り過ぎてしまうとどうなるか? と言いますと。
他人様の幸せを妬んだり、必要も無いのにあちこち見渡して手当たり次第にやっかんだり、挙げ句足を引っ張ろうという衝動が沸いて自分もドツボに填ったり、必要以上に怒りを感じる場面が多かったり、自分以外は思い通りに動かす道具としか思えなくなったりと、他の誰でもなく自分自身にとってマイナスの側面が増えてしまうきらいがあります。

自分の幸せばかりをひたすら願っている筈なのに、蓋を開けてみれば不平不満、不幸な錯覚がいや増すばかり……本末転倒ですね。



自分の中の、『自分の幸せ』と『他人の幸せ』。
どちらもある程度のバランスが取れていないと、結果的に自分の人生に陰りが差す可能性が高くなります。

そこで、自己ワークの一環として『他人様の幸せを祈るワーク』を提案することがあります。
日頃、視野狭窄に陥っている人は、他人様が如何に自分に関わって下さっているか、どのような形で影響をもたらしてくれているか、自分に対してどのような気持ちを持って下さっているか等には無関心です。

ここに目を向けて深く感謝すること、その人達の幸せを祈ることで、自分の視野が広がり、スタンスに変化が起き、ものごとに対しての受容性が増え、与えることと受け取ることの意義を理解するなど、様々な効果がもたらされます。



他人様の幸せを心から祈る時、自分が幸福感や感謝に包まれる感覚が沸き上がります。
「してあげている」のではなく、「祈ったりしてる私って高尚♪」なのでもなく、ただただ祈らせて頂いていることの有り難さを感じるでしょう。

最初は大好きな人から。明確に好意を感じる人からスタートしても良いかと思います。
自分と他人の区別があまりにハッキリしている人(私、あの人とは何の関係ないし! とかよく言っちゃう人)は、無関係だもんとバッサリ斬り捨てている相手を対象にすると、効果が大きいかも知れないですね。
自分に対してメリットがあると思えない人に対しても幸せを祈れるようになると、感謝の気持ちや幸せを感じることが深まって行くでしょう。



さて、「他人様の幸せを祈っている時、どういう風にやっていますか」というご質問を頂きました。
これは人それぞれなので、明確なやり方や正しい方法は分かりません。
私個人の話で言うと、先ずは
「その人がやりたいと思っていることが出来て、沢山の人と仲良くしながら健康に生活すること」
を前提にします。

その上で、
「生きていることを深く肯定し、受け容れ、感謝や喜びを感じる時間が増えて行きますよう、沢山の幸せで人生が満ち溢れますよう」
というようなイメージで祈っています。


幸せの形は人ぞれぞれですが、その人が望むように生きて、自分と人生を喜びと共に肯定出来たら、恐らく誰もが「ああ、生きていて良かった」と思う時間が増えるでしょう。
何があるかは私の手の及ばない所ですし、下手にそこをイメージしようとすると、途端に他人を操ろうとし始めます。
そんな状態では幸せなんぞ祈れませんわー(笑)。

そうではなくて、一言で纏めると「いつも幸せで居て欲しい」のですから、その気持ちにフォーカスするということですね。

その時の体感覚はどうですか? と訊かれたのですが、これは上記のように『幸福感、深い感謝』で身体が満たされるような状態です。
有り難い感じとか、豊かな感じ、安らぎ。自分を肯定している感覚。
様々な言い方がありますが、総じてポジティブな状態であると言えましょう。
本来他人の幸せを祈ることというのは、自分の幸せとダイレクトに直結しているのです。



ここでエゴとしては
「そんなことにエネルギーを割いたら損をする。他人が幸せになったらもっと損じゃないか」
「私の方が大変(不幸、辛い、苦しい、過去苦労したetc.)だから、全ての人間が私の為に祈るならまだしも自分がする義理は無い」

等と色々なことを言うのですが、これがまたいちいちごもっともに聞こえる言い分です(笑)。

それまではその言葉に操られて、必死に自分だけを幸せにしようとしていたのですよね。
では、振り返ってみてその在り方はホントに幸せをもたらしたのか? と問われれば、間髪入れずに肯定出来る人がどれだけ居るでしょう。

あと"損する"って何。とかね(笑)。
この辺りを突き詰めて行くと、面白いことをエゴが喋るかも知れません。
その根拠は何ですか? と自分に問うと、「だって前~~~~だったんだもん」とか言い出すかも。
自己理解の一環として、こっちを見てみるのも手かも知れません。


他人様の幸せを祈るワークも、地道な積み重ねがものを言います。
瞑想とかウォーキング、食事等、日々の小さな積み重ねが収束して行って、有り難さを深く感じられるようになって行けることもあります。

だから続けることです。
「いきなり至福感で号泣したい」というドラマをご希望なエゴには残念なお知らせですが(笑)、こういうこともコツコツと続けることで結果が得られやすいのですから。






草木も眠る丑三つ時……を遙かに過ぎたもうすぐ明け方(笑)。





遅々として進まない己の解明にそれでも食い下がりつつ、手は動く……ん? 何?






最近はこういうことをやっております。





グミ…?




テカテカと輝くネオンな物体は~~~~。
グミキャンディ。



グミですよ、グミ。






じゃー出っ張ってる怪しげな金具らしきものは何?




…………それはまあ、見たまんま金具ということで。
全長は一個につき2,5センチくらいです(不要な解説)。











つぎー。
結局何が何だか分からないままに、チラ見せその2。







アイスクリーム…?







アイスクリーム。







に、見えます。





接写したら白い部分が飛んでしまいましたが。
下に敷いてあるプチプチは、梱包に使われる緩衝材のあれです。原寸大よ。


このアイスクリームは直径3センチくらいかなー。
掌サイズどころか、フィンガーサイズです。
某31なアイスクリームショップだと、100円くらいで食べられるかも?(笑)


他にもチョコチョコと。
主に深夜活動しています(昼は暑くて無理な為)。





己に向き合いつつ、はーとかうーとか言いながら、このようなことをしているのでございます。
何故ってそれは、登山家が山に登る理由と一緒ですよ。
そこに作りたいものがあるからだー。だー。




そんな感じで、ギャグパートはそろそろ終わります……本人いたって真面目なんですけど。
私を直接知っている方にしてみたら、「あー、いつも通りですねー」なんですけど。




★☆★





それにしても人の意識って本当に広大で、限りが無いんじゃないかと思います。
何でもアリですからねー。
ここでいきなり精神論かって、すみません(笑)。


先日のワークショップにご参加下さった方が、コラージュその後について教えて下さいました。
他の方が貼って下さったものを食べることになったりして、そのまま予定通りに実行しているかのよう…というようなお話でした。

食べ物は私もありましたよー。
私、鶏の唐揚げが大好物なのですが(庶民)、それを知ってかどなたかがトリカラの画像を私のコラージュに貼って下さったのです。

……と、思いきや。
実はその画像はトリカラではなく、宮崎名物・とり天だったことが後に判明。紛らわしい(笑)。
とり天は食べたことが無かったんですが、数日後に近所のスーパーのお総菜コーナーでとり天を発見しまして「あっ」と。
そりゃ買いますわー。

そしてコラージュの現実化第一弾と相成ったのでした。おいしかったですよ!
いやいや、もうこれは現実化じゃないですね。単なる予定行動でした(笑)。




「何故か分からないけどそうなった」
「他人様から頂いた」
というようなケースが現実化としてはシンボリックな形かと思いますが、自分でやった所で結果は同じです。
自分でも可能だけど、わざわざ自分でやるのは悔しいからとか、外側からやって来るまでは嫌だ等というエゴの理由で、自ら現実を阻害している場合も有り得ます。

でも、自分も他人も自分の意識内の登場人物だとすれば、誰がどう動こうが同じだと思います。
どういうプロセスを経て現実化するかではなく、その結果が重要な訳ですからね。
プロセスを重視する場合はこっちが結果になります。
手段と目的が入れ替わるということに。
そしてそれを忠実に反映するのが現実世界=自分の意識。
形を成して行くのに、プロセスではなく結果へとフォーカス先が合っているかを、ちょいちょいチェックしておくと宜しいかと思います。


改めて見返すと、不思議な気もします。
当たり前ですが、意識と現実は完全にイコールなのです。
我々のエゴが、それを現実だと思い込んでいるかどうかの違いだけで。

一番幸せなのは、『顕在的にターゲッティングしたもの=現実』というケースでしょう。
一番辛いのが『顕在的に否定しているもの=現実』かなと。
状況を変更する際には、先ず現実がどうであるかが基点になります。
エゴ的にどう思っているかに拘わらず、『現実=自分の意識の反映』という受け止め方をフラットに出来る状態になったら、そこから自分の意識を何処へ持って行くかが問われます。
その状態から、あなたはどうなりたいのですか? と。

『顕在意識=現実』
というスムーズな状態へシフトして頂けるように、サポートするのが我々セラピストの仕事です。
個人的にはまだまだレベルを上げないと…ということを痛感しつつも、ご縁あってお越し下さる方々に対しては、どうにかしてお力になりたく思っています。
これも私の現実ですねー(笑)。





望む状態が現実とイコールでありますように。
明日も楽しい一日でありますように♪




こういう記事の書き方してると、どのカテゴリに入れたらいいか分かんないなあ…と自分で墓穴を掘ってその中で寝ます。
おやすみなさーい。







今日も今日とて現実と意識の話です。
えー、もしかして飽きました?(笑)

飽きた人は別のサイトへれっつごー。
とりあえずGoogle先生はこちらです。




とあるジャンルについて、将来の可能性を選定する時に、A・B・Cの結果を想定したとします。
この中で最もリアルにイメージし、既になった感じを体感出来るものが結果としての最有力候補になる、というのが『イメージは現実となる』ジャンルに於ける定説です。

この説を用いる場合、AとCは何となくの絵面しかイメージ出来ないけど、Bの結果は感情までを今の時点で感じることができるなら、Bが現実候補の一番手になります。
そこにリアルな体感が可能であるならば、「未来で既に起きたことを今、思い返して回想している」と言うことも出来てしまう。
日本語が変? だって、実際の状態を正確に説明したらこうなるんですよ(笑)。




ところで日々の生活を送る中で、「うん、そうだと思ってた」ことと、「ひえー! 何これー!」なことがありますね。
あと敢えてもう一つ挙げるなら、「全然眼中に入ってない」ことがある。
大体、生活の中で起きる出来事はこの三つのジャンルに分けられると思います(他にもあるかも知れませんが、便宜的にということで)。
この三つを、どう捉えるでしょうか。

「だと思ってた(類:そうなって欲しいと思ってた)」ことは、自分の意識が起こしたことにカテゴライズ。
「何これー! 全然予想してなかったんだけど!!(含むネガティブ事件)」は、自分の意識にはありませんでした(or私はそんなこと思ってません!)に突っ込みます。
そして最後の「あってもなくてもちっとも気付かないし気にしない現象」は、更に意識の蚊帳の外へ追いやりたい。だって私には関係ないもーん。




……と、私はざっくり分けていました。
でも、現実である点は総じて同じです。
全く、何も違いがありません。
現象発覚後に後付けで、自分(実はエゴ)の好みかどうかを基準にジャンル分けしていますね。
このように、極めて身勝手な理由(笑)で現象に対してペタペタとラベル貼りをしておりました。

そしてその後。
つらつら考えるに、一番最初に挙げたものと自分の意識とを関連付けしているせいで、結果として「全ての現象は自分の意識内で起きている」という風に纏めざるを得なくなりました。
後ろ二つまで私かい! そーんーなー馬鹿なー!(なー…なー…<エコー)
とエゴが悪態を付くも、
「じゃあ、最初のアレも自分の意思が微塵も関わっていないと言い切れるのかね?」
と問われれば、それはそれで嫌だ。そんな筈がなーいー。


どっちやねん(笑)。


結論として、今の段階の私は「全部自分(の意識内で起きていること)でしたースミマセーン」です。
考えれば考える程、辻褄が合う話には自分(ていうかエゴ)にとっての逃げ場は無かったんです。エゴ無念。





さて、『詳細にイメージ出来るものは現実となる』ジャンル内で、いまいちあやふやな部類の現象があったりもします。
『顕在的(エゴ的)には全然そう思っていないが、どういう訳か他人様からハッキリ言われること』ってあるじゃないですか。
あれはどう解釈するのか。です。

様々な現象や事実の中には、振り返るだに
「いやー自分ではちっとも予想してなかったんだけど…まさかこんなことになろうとは」
とコメントする出来事
がありますよね。
全部ではないかも知れませんが、あれに結びついているのではないかと思います。


エゴ的には全く掠らないんだけど、大枠で見た意識内(=世界の情報)にその情報がはっきりとある。
それが現実の現象として具象化した際に、エゴは「全然そんなこと思ってなかった」と言います。
意図的にフォーカスしなくとも、他人様が仰って下さることイコール自分の意識内情報の結晶だと考えれば、何がどう現実になっても不思議ではないのです。

逆に言うと、前向きに自分がそう思えないことでも、他人様が断言してくれているならば、具象化の可能性が非常に高いということです。
抑も"誰かがこう言った"という現象として起きてはいる訳で、それはとりもなおさず自分の意識がその情報にフォーカスしていたということに他なりません。
それをエゴがどう捉え、どうジャッジするかは解りませんが。



事例として「他人様に言われること」を挙げましたが、言われなくても思われていたら同じです。
色々な事情や状況を慮って、その時は言ってくれなかったこととかってありますよね。
でも口に出したかどうかだけの違いで、結局その人(の姿を取った自分の意識の一部)はそう思ってたんです。
その情報は既にあった、と言えます。

この理屈を使うと、自分もそのようにして他人様の現実に干渉している、と言うことが出来ます。
だから誰かの幸せを願うことは、事実その人にとって何らかの幸せ現象として結実する…しているのではなかろうかと。
エゴが気付いていないだけで、自分もそうして誰かに幸せを願われているのかも知れません。
例え、現時点のエゴにとっては不利益だ、不幸だと思えてしまうような現象を通して現れたとしても、結果として自身の幸せへ繋がっているものは沢山あるのでしょう。



このようにして我々は互いに有形無形の形を問わずに干渉し、現実を作り上げているのかも知れないと思ったんですよね。
まあ、証明は出来ませんわ。
現段階で私がそう思っているというだけの話です。

肯定否定どっちでもいいから、万人向けに証明出来る方法とかあるといいのになー(笑)。
そうしたら皆さんにとっての安心材料が増えるのにぃー。
…というようなことも思っているのですが、それは置いといて。



自分でリアルなイメージが上手く出来ないよ、という方は、上記の点を踏まえた上で他人様のお力をお借りするという手があります。
自分の幸せを願ってくれていそうなお友達に、「○○の件について、どういう状態の私がイメージ出来る?」と訊いてみるとかね。
占いとかリーディングをしてくれる人に会うのも、一つの手です。
そういう方々は、可能性のある未来を教えてくれる専門職な訳ですから。

但し、誰に会うのであっても良い結果をリアルに感じたいなら、「よく分かんないけど良いこと言われて良かったー」と良かった感を身体で感じてから行動に移しましょう。
ここでも前提は大切です。

ノープランで臨む場合、これまで繰り返して来たパターンを踏襲する羽目になる可能性が非常に高くなります。
つまり、周囲を愚痴っぽかったりネガティブなことばかりを言う人で固めている場合、似たような結果が出るであろうということで。
仮に一時的な作用であっても、「良かった感」をセットしてから行動するのがお勧めでございます。





では、本日はこれにて。







ワークショップの時にお話しした内容の一つに、


「言葉はエゴであり、特に固有名詞は全て分離の為に使っている」



というものがあります。
これはどういうことでしょうか。


仮に他人様が関わっている何かを言語で表す時、
「○○さんが××をした」
という言い方になりますね。

この言い方を更に正確な表現に改変すると、
私ではなく、○○さんが××をした」
になります。



他人様の名前を使用する時、はたまた自分以外の何かを言葉で指す時、我々は前提として「それは自分ではない」と分離しています。
出来事・現象・結果に対する責任は私にありませんというアピールに使ったり、私はそういうことをしなくていいんですーとか、自分の手の及ばない範囲の出来事であると断じる証左にすることが可能です。
可能ですって言うか、エゴ劇場ではそういうルールになっています(笑)。

世界は自分と自分以外で成り立っていて、現実とは私が意識を向けたものの中で、特に都合の良いものを指す。
"そんな筈は無い!"何かや、"好みではないから許せない"何かは、全て現実ではありまっせーん!
とりあえず恨み言や泣き言や文句を言い続けるから、一度出た結果は怨念パワーで私好みの現実にねじ曲がりやがれー!


というやり方がルールです。
……でも、ねじ曲がらないんだけどね。うん。
ならない。となると、ここで誰かや何かの固有名詞を持ち出し、それのせいに出来てしまうということですね。
自分にとって不都合なことは全て、例えば家族、友人知人、まだ見ぬ陰謀を練り上げている誰か、仕事、政治、法律、社会システム、お天気etc.の自然現象、宇宙、過去、そして神や仏なんかのせいです。そうそう。


逆に利用する場合、「○○のお陰」というバージョン違いが生まれます。
現象に対する使用法は、ちょっとした分離という意味では全く変わらないのですが、結果に対して生まれる感情が異なるというものです。
エゴも使いよう、ということですね。

我々は何らかの"俺ルール"に沿って、これらを使い分けているのだと思われます。
これらの片方だけしか使ったことがない、という方もいらっしゃいますが……。




私はセラピーの現場に携わらせて頂くようになって、10年以上の歳月が経ちますが、
「他人の幸せなど嘗て一度も願ったことが無い。意味が解らない。周りが自分の思い通りになれば私は幸せになる筈だから、あとはどうでもいい」
という方々を沢山見て来ました。

つまり、自分がどのような場面に於いても如何に得をするか、如何に他人より上に立つか、如何にその時の気紛れで周りを自在に操り続けるかにのみ生きる価値がある、他人が幸せになったら損をしたも同然…と言い切る方々が沢山いらっしゃるということです。
それはそれで宜しいんじゃないでしょうか。それで本当に思い描いていた幸せが得られるなら。
更には、ご本人様にとって「これは問題だ」と認識されないものは、他の誰がどう思おうが問題にはなり得ないのです。




『情けは人のためならず』という言葉があります。
他人様への親切は、自分の為にやってるんだよーということです。
それは一体、何故でしょうか。
己の為したことは、いつか(今生でなければ来世で)巡り巡って返って来るという、因果応報説なんかもあります。

それはそれでいいと思います。どの観念を取るかは人それぞれ。
でも、全ては自分の意識の現れで、好きだ嫌いだあーだこーだと文句を言い続け、出来事に対して抵抗しジャッジし続ける方がエゴなのだとしたら、他人への親切は自分への親切になります。セルフ作業ですな。

その場で、タイムラグ無くして自分へ親切を与えている。
他人の幸せを願うのは、自分の幸せを願っているのと同じー。
いや、同じじゃなくてそのものです。
なまじ「他人が居る」とエゴが分離を定義しているから、イコールになりづらいだけ。



こういうことを書いていると、「証拠はどれだ」という話になりかねませんが、スタンスを何処に定めるかという話になるので、あくまでも有り得ないという方にとってはそれが事実でしょうし、出来事の方が私でしたという視点を持つ方にとってはそれが真実です。

私はと言いますと、どちらの視点をも行き来している状態です。
いや、これまで生きて来た通りボーっとしていると、ついついエゴの視点が自分だと思ってしまうので、「あ、やべ…」と現象の方に主観を移動する、というのを意識的にやっている訳です。
だからちょくちょく感情も揺れるし、マインド的に色々頭の中で喋ります(笑)。


しかしそれも、昔の自分と比較すれば激減しました。特に、ネガティブな内容が減ったと思います。
それだけで格段に生きやすくなったのは間違いありません。
同時に、それまで頻繁に起きていた痛みを多量に増産するような出来事も縮小して行きました。
生きているだけで苦痛を感じていた私がここまで来られたのも、先に立ち道を示して下さった色々な方々のお陰です。ありがたや……。

ちょっとしたことに気付いたり、多少理解が進んだりする度に思うのは、何にせよ色々な方のお陰で奇蹟のような人生を歩んでいるのだなあということです。
奇蹟っつっても、別にあれですよ。イリュージョン的な華々しい何かが起きたとかではありませんよ。
普通に外を歩けたり、食事出来る状態だったり、毎日生きてその日を迎えることが出来るということが、どれだけ凄いことなのかという話です。

このblogもどれだけの需要があるかは分かりませんが、少なくとも読んで下さっている方はいらっしゃって、こうして書かせて頂ける場があるというのは、本当に有り難いことだと思っています。
私、書くの好きなんで(笑)。




多くの方々が抱えている、世界と分離してる感が少しずつでも減少して、ラクな時間が増えるといいなーと思います。
私の言い方や書き方で分からない、伝わらないのだとしても、何かのきっかけでそちらへ意識を移動出来るといいなと思っています。

もっとラクになれます。
もっともっと幸せを沢山感じられますように、心から願っています。





あっつーい!



以上、本日の心の叫びでした。










先日のワークショップ時に、
"既に数ヶ月先であるという舞台設定の上、『今年はこうだったね』という結果を取るワーク"
をしたのですが、皆さんの会話を聞いていると、

「"私が"これからこうしてやる!」
「今から"自分だけが嬉しい現実"を力ずくで作り上げてやる!」

という、これまで散々使い回して来たエゴ全開のトークがちょこちょこ混ざっていて、足並みが揃わない場面もチラホラ。
皆さん、こっちの希望に添え! いやこっちだ! って、エゴに乗っ取られた状態で綱引きしてました(笑)。

やっぱり油断すると現在に戻って来てしまうのだなと思いまして。
それはそれでいいんです。何も間違っていないので。



未来の地点に立って過去を振り返るワークも、言葉を使っています。
所詮はエゴを使ったやり方なのですが、スタンスを取り違えると結果がそれに沿った内容になります。

エゴは"自分だけ特別"が大好物なので、私が! 私が! と常時あらゆる手を使ったアピールに余念がありません。
そうすると、特別感(自分だけ感)を如何に引き立たせるかに結果のポイントが移動します。
エゴの方に主観が移り、『私だけ良い(或いは悪い)思いをして、他の人にそれはあげない』という所へ落とし所を持って来る、という結果になりやすいんだろうなと私は思います。


自分だけが正しい。他の人は間違っている。私だけいつもこういう思いをする。
等々、様々なジャッジをする為…というのが目的(結果)になるので、これまで繰り返して来たエゴのドラマ劇場に足を踏み入れてしまうでしょう。

そしてこう言うのです。
「ほら、私は正しかった」
「こんな筈じゃなかった」
と。
感情が激しく揺れ動き、これがまるで世界でただ一つの真実であるかのように自分の正しさに溺れ、周囲に対して様々な要求を課します。
そして、そうならないことに怒りを燃やし、攻撃し続ける…永久ループです。



自分の世界はいつでも自分で変えられる。
これまでも望み通りだったし、これからも望むままに出来る。
その定義を使いたい場合は、出来事に対してどう思うかではなく、出来事そのものが自分の意識なのだと視点を移すのが一番の近道です。

だって、他人なんか本当は居ないんですから。
エゴの視点に立った時、自分という存在を確立する為に世界と分離し、他人という架空の存在を作り上げるだけなのです。
この辺りはどの視点で物事を解読するかに懸かっているので、正しい訳でも間違っている訳でもないのがポイントですよ~。




先に結果を取るならば、エゴを使用しても選択の幅が増えます。
仮に自分と他の人とが調和した状態という結果を"取った"と決断するなら、それは自分の意識が調和した状態であり、顕在意識と潜在意識がイコールになった状態です。
つまり、現実と自分(=エゴ)のギャップが消え、自分と自分以外という分離が起こりにくくなります。

無論、従来通りに『私だけは特別』『自分は、いつなんどきであっても絶対に正しい』で満足したいならば、それを続ければ宜しいと思いますが。
ただ、本当に満足したり納得行くかは分かりませんねー。

色々見て来た中で、私はこれを得たくて生きている人に、本当に心底満足している人を終ぞ見た試しがありません。
いつも飢えていて、感情の振り幅が激しく、自分がどれだけ特別かを証明し続けなければ生きられない…と思い込んでいるように見え、「めんどくさくないのかなあ」とか「それやってて人生楽しいのかな?」と思うことが屡々ありました。
あくまで私の感想ですけどねー。そして私もやっていたという(笑)。




こういう意識の持ち方も、『出来るようになった』前提を作り、行動を習慣化することで身に付きます。
今できなくても、出来た結果を取ってしまえば良いだけです。
過去の繰り返ししか存在しないなら、これまでやったことが無いものは、今後も永久に自分には得られないことになります。

でも、これまでだってそんなことありませんでしたよね。
生まれたばかりの時には出来なかったことを、今に至るまで次々と成し遂げて来ています。
歩けるようになったし、自転車に乗れるようになり、泳げるようになり、ボキャブラリーが増え、仕事を替え、環境が変化し…等々、我々は無数の変化を体験しています。

この先も、無理だと諦めかけていたものや夢のままにしておいたものが、どんどん自分の人生に登場するのです。
長いこと痛んでいた傷は癒され、視点は変化し、喜びに満ちた人生を体現することが幾らでも可能です。

楽しみですねー。

エゴは生きている限り消せるものではありませんが、こんな風にいっそ共に人生を楽しめたらいいですよね。






★☆★




告知~。



海外在住の友人からお知らせが来たので、こちらに掲載しておきます。

現在、銀座の永井画廊さんで開催されている、絵画展『大築勇吏仁―エデンへの回帰―展』をリンクしておきます。

大築さんはスペインでご活躍の日本人画家さんだそうで、この展示会は6月4日から開催されているそうですが、6月21日(金)迄の展示だそうです。
因みにお時間は 11:30~19:00となります。
会期はあと数日ですが、ご興味がおありの方は、足をお運びになって下さいませ。







昨日は6月度のワークショップ開催日でございました。
ご参加頂きました皆様、ありがとうございました!

6月は半期に一度の長時間ワークです。
8時間の間、様々なワークを通してシェアを沢山して頂きました。




昨日までの間に、個人セッションを受けて下さった方も複数名いらっしゃったので、お願いしていた実験の結果をお知らせ頂いたりもしました。
何の実験って、あれです。
『先に欲しい結果の"だった感"をやっておくと、本当にそうなる』というあれ。

色々なサンプルを集めました所、「やっぱり、過去完了形の結果ありきなんじゃないか」という話になりました。
非常に高い確率で先にやった『だった感』をもう一度やることになりました、というお話が多かったので、皆さん暫くこれを実験なさるのではなかろうかと思います。


お話し頂いたサンプルの中には

・最近家族が険悪ムードだったのに、それが消えた
・臨時収入があった
・仕事場で緊張してミスをしていたのが、ごく普通にこなせるようになった
・残業が無くなった


等々、様々なシチュエーションがありましたが、皆さん口を揃えて仰ったのは「先に体感した"だった感"を、結果もう一度追体験することになった」ということです。
プロセスはさておき、抑もの結果は先に知っていた訳ですから、「ならなかったらどうしよう」も無く、非常に穏やかな生活が出来ます。

ただ、稀に「ならなかった」という時があります(正確に言うと、エゴ的に『ならなかった』と思い込んでいる時)。
それは何故か。結果が完全一致する時と、そうでない時の違いは何処か?
それぞれにご自分をご観察頂いて、ご自分なりの見解をまた持ち寄って下さると、皆さんにとって有意義な情報交換になるかと思います。




ワークショップ内ではコラージュ作成もしましたが、これも面白かったので、皆さんのその後が楽しみです。
あ、どさくさに紛れて私も作って頂きました(笑)。
今回は自分のコラージュを他人様に作って頂くというのをやったのですが、完成したそれに対して自分のエゴがあーだこーだ言うのを観察して行くと、パターンを発見しやすいと思いますよー。

今回は「今年の12月31日に、今年の後半を振り返った思い出アルバム」という隠しテーマで作って頂きまして。
完成するまでテーマは黙り続けていた私。
先に言っちゃうと、いらんことでエゴが出張る可能性があるので、後でネタをばらしました。

エゴ的にどう思っていようが他人は本人の意識の現れですから、他人様にコラージュを作って頂いたというのは、結果的に自分が作ったことになります。
そして、それについて「○○さん、今年はこうでしたねえ」と皆さんに思い出を語って頂いた内容は、今後半年の予言となります。予告ホームラン!(笑)


コラージュの内容が昨日の今日で現実になりました、というご報告を早速頂きました。
えー……もう……一体何なのー……(笑)。
こんな感じで、今後の答え合わせが楽しみですねー。

人に依って(また内容に依って)はエゴに巻かれて「ならないじゃん!」と怒ったりする場合もあるでしょうから、コラージュを見てワークを思い出し、
「あー、これ作ってくれた●○さんと○●さんがこう言ってたわ。なったらしいからまあいいや」
と思い出しやすい状況にするとか、色々使いではあるだろうと思います。



★☆★



以下、確定している今後のワークショップスケジュールです。


★2013年 7月14日(日曜) 11:00~15:00

★2013年 8月11日(日曜) 11:00~15:00

★2013年 9月15日(日曜) 11:00~15:00





詳しくは、ホームページをご覧下さいませー。
また皆様とお会い出来ますこと、楽しみにしております!




梅雨特有の蒸し暑さがやって参りました。
湿気の凄さにジーンズが脚に貼り付く、あのめんどくさい感じも風物詩ですね~。
うん、これぞ正しい梅雨!



と思えば、ジメジメして嫌だーというエゴも誤魔化せるかも知れません(笑)。






古くから偉大な先人達は、口を揃えてこう言い残しています。

『現実など存在しない。あるのは自分の意識だけ』
『何もかもはイコール自分である』
『自分だと思っているのはただのエゴ』
『このエゴに振り回されていることが苦痛の元』


これを理解したくて、また苦痛から逃れたい為に修行の道に入ったり、スピリチュアルを研究する人が居る訳です。



最近、現実と自分(の意識)との関係を色々検証していた所、これまでもそう思っていましたが、今更ながらにやはり何をどう考えても
『現象の方が自分で、これまで自分だと思っていたのはただのエゴ』
としか思えなくなりました。

スピリチュアル的に言うならば、自分の見る・体験している全ての現象とは、何もかも自分の意識内で発生している情報の現れです。
それに対して、"これは自分の外側で起きています"と分離した上で、好き嫌いとか嫌だ云々と言うのがエゴ。
でも実際は、『自分の外側』だと思っていたもの全てが自分(=自分の意識)。
で、『自分』だと思っていたのはただのエゴだったとさ。あーエゴエゴ。



日頃我々は、好き嫌いや嫌だ認めない辛い苦しい等とベラベラ喋る方を自分の意識・意思だと思っています。
が、顕在意識と潜在意識の関係を鑑みるに、「あらー? これって逆じゃん」と思い至りました。気付くの遅っ!(笑)
知ってはいたのですが、よくよく観察してやっぱりそうだという確認をしたという話です。

なかなか面白かったです。「……あら!?」と、世界がひっくり返りまして(笑)。
何かに対して、出来ないとか無理だとか言っていたのはエゴです。
でも、意識とエゴの関係が逆転すると、それもただの戯言なんだなということになります。

世の中(だと思い込んでいる意識内)で何かが起きているなら、それは自分の中で起きていること。
他人に見えるのは、エゴがそう認識したいだけ。あるのはただ、自分の意識のみ。
出来ないこと等無いし、嫌なことや有り得ないことなど無く、ただただエゴが一つ一つに対してそのラベルをせっせと貼っているだけなのでした。



自分と世界はイコールである、という言い回しで納得行かない部分があったのは何故かと言うと、そこにエゴの好き嫌いやルールを挟んでいたせいです。
「だって私はそんなこと望んでいない」
「私はそんなつもり無かった」
と言い張っていたからなのですが、何をどう言い張ろうが毎日様々な現象は起きていて、それを体験し目撃しているのは間違いなく。

どんな文句を言おうが望んでいないと主張しようが、事実として発生していることは後付けで動かせません。
歴史の改変は絶対に出来ないですよね? 取り消すことも出来なければ、捻じ曲げることも不可能。あるものはある。発生した後にどうこう言った所で、もうどうもなりまっせーん。
そんな筈はないとかそんなの嫌だと幾ら言った所で、起きた事実に対しては何の強制力も無いのです。
何の文句も無力なりという訳で、とっとと事実を事実として認めるのが一番ラクでしょうね。

例え私(=エゴ)が望んでいないと言っても、出来事そのものは残念ながら実際もう存在しちゃっている訳ですから、自分の意識の中にそれらは"情報として現在存在している"と言うことが出来ます。
能動的・受動的・無関心云々はエゴの担当なので、これらを挟んで解釈しなければ良かったのでした。
現象&出来事&事実(=意識の現れ)と、それらに対する好き嫌い・能動受動・肯定否定(=エゴのジャッジ)をうっかりごっちゃにしていたせいで、理解が上手く出来ていなかった、と。


「現象に対する否定なんぞどーでも良かったわい! 嫌とかこんな筈とか何とか、うわー意味ねー!!」


と思った私でした。
※臨場感の演出上、いつも脳内で喋っている口語体で表記しております。大変印象が宜しくなかったらごめんなさい。






世界こそが自分の意識だとすると(っていうかそうなんですけど)、意識内には様々な情報が溢れていて、目を向けた方向で凝固し顕在化した情報が現象であると言えます。
世界こそが自分の意識ならば、「知らなかった」ことも無ければ「分からない」ことも無い。
「知らなかった」「分からない」と言っているのは、ただのエゴなのです。

これを理解すると、途端に制限が無くなります。
エゴの支配下で苦しんでいた自分が、無限の自由を手に入れることが可能になります。
但し、エゴは消えません。
なので、「あ、これエゴだった」「やばいやばい、エゴに主観を乗っ取られてたー」「世界の方が私の意識だったわ。逆だよ逆」と気付き続けなければ、またこれまでのお馴染みエゴ劇場に引きずり戻され、辛い苦しい悲しい痛いな演技を延々と続けることにィ~~~。
あわわ! でございます。



自分の身体の中に固定されている意識を、周囲で起きている現象の方にずりずりずり~と移動させる、という練習をしていると、如何にこれまで五月蠅いエゴに振り回されていただけかが分かります。
私は長いこと「自分の身体の中に自分が居る(自分の意識がある)」と思っていた所からいきなり大間違いだったんだなーと思いました。

自分の身体の中に居るのはエゴでした。
と主客転倒してみると、大体のことは何でも無かった。
そして一人芝居お疲れさん……(笑)。
自分で自分に好きだの嫌いだの言ってただけだったなあと。
阿呆すぎます……あとは笑いしか出ませんでした……フフフ……。



「私は望んでないのに!」「嫌なのに!」というフィルターが、これまで物事を正しく見ることの邪魔をしていた訳ですが、これを訓練で外して行くというのが瞑想です。
お坊さん達が修行の一環としてやりますよねー。

煩悩とは、エゴのこと。
これを意識的に黙らせる、自ら距離を取れるのは、瞑想状態に入った時です。
自分の脳波を意図的に下げ、日常的にエゴ大暴れな状態であるベータ波からアルファー波を経て、シータ波~デルタ波まで落とすのです。
この状態の常連さんは、自分の意識が全てであるという所へ到達することが出来るようになります。


稀に、普通の生活をしている人が突然一体感を感じてしまうことがあります。
幸福感で満ち、この世はただ幸せしかない、不安や恐怖が消え去った状態を全身で感じるのですが、ある程度訓練を積んでいるか、信頼出来る師に付いているか、若しくはある程度以上の知識があるかでないと、その後に重度の鬱状態になる場合があるそうな(そこから何とか抜けた人を数名知っていますが、かなり大変だったそうです)。

なので、いきなり仏陀やキリストレベルを欲するのではなく(笑)、着実に経験を積みながら進むのが良いのではないかと思います。
その人のタイミングというものもありますし。



ところで何でこんなことを書いているのかと言うと、あらゆる現象は元々自分が起こしていたのだな。というのが分かれば、この先の人生を如何様にも変化させることが可能なのです。という話に持って来たかったからです。

一つでも「あれは自分じゃない、私のせいじゃない! 自分は関係ない!」と言い続けているとですね、極端な話ですがご自分の望む何かを現実とすることも自力では不可能、という話になるじゃないですか。
世界で起きている現象に、自分が干渉しているのかしていないのか。
以前も書きましたが、もうこれってどっちかしかありませんよね。

目撃し、体験し、見聞きし得る現象の全ては自分の意識の成せる業なのか、はたまた自分を含めた世界の何もかもは私以外の何かに依って動いているのか。
もしも後者だとしたら、何かを望むこと自体が無益で無駄だということになりませんか?


さて、どちらでしょう。




この件につきましては、言葉(特に固有名詞の全て)はエゴで、分離の為にあるとか色々付随する話があります。
とりあえず、今日の所はこの辺りで。

読み辛い、分かりづらい箇所が多数あるかと思います。
いずれもっと分かりやすく、どなたにでも伝わりやすい文章に出来たらいいなと思いつつ、自分の限界を感じながら今日は寝ます(笑)。





本日の東京は雨。
お陰で気温が落ち着いており、大変喜ばしいです。






最近色々書いていますが、何で色々書いているかというと、これまで希望する現実に結びついているものとそうでないものの違いを解体していたからです。
その中の一つが、アファメーションでした。

私は断定形で言い切るアファメーション(肯定的な宣言)が殆ど無効というタイプの人間でした。
一方では、アファメーションをしてその通りになっている人も沢山いらっしゃいます。
その違いは何か? と思っていたのですが、私に関して言うと、自己評価がアホほど低いとか、欲求を自分に対して禁じていたとかでして、メンタル的な部分が色々と自分の足を引っ張って来ました。
一言で言うと、自分で自分の足を引っ張ってただけなんです。セルフで嫌がらせをしてたんですよー。んもー何なのー……(笑)。



他にもあるかなと思って自分の生態を観察していた所、"アファメーションが現実化しない。という現実"について行き当たりました。
抑も私、肯定的な宣言をしても、その言葉に現実味を全く感じられなかったんです。
書けども言えども身体に響かない。となると、その内やめちゃいます。

身体に響かないのは何故かと言うと、『それは現実ではない』という風に自分で選り分けているからです。
アファメーションをしたって、やる度に
「何とかかんとか……でもこれは現実じゃないよー」
という宣言を結果的にしていることになりますから(何やってんだ…)、ならない現実を量産します。
ややこしいけど実際そうです。



この選り分けは何が基準でしょうか。
一つは、時間軸です。
私は未だ"過去⇒現在⇒未来…"という時間の流れを当たり前だと思っている節があった為、ついつい過去どうであったかを論拠にしてしまう癖が根深かったのです。
過去の体験を参照し、適合する・若しくは類似する体験が無ければ「…だからなる筈がない」というカテゴリに突っ込んでいたのでした。

これはエゴの機能です。
エゴは過去と体験とそこから生まれる言葉で成り立っていますから、エゴ的には正しい結果と言えます。
そこへ、これまでの累積された結果に無いこと(=アファメーション)を載せた所で、それが一体何になろうかという話ですわ(笑)。


過去の体験結果が正しいとするエゴにしてみたら、そこから離れて現実が良くなるというのは、これまでにない未知の世界ですから、「意味わかんねー。何それ」になります。
そして、それまでの現実が否定されることにも繋がる(と思っている)ので、「意味分かんないけど、とりあえずそれは無し」な結論に行くのも、充分あり得る話です。あ、「私は」ですよ。

過去の体験と類似したことを繰り返すのを、『パターン』と言いますね。
これは何故やるのかと言うと、何らかの結果に対して「ほれ、やっぱりそうじゃないか」と言う為
つまり、過去の自分の体験は正しいものであったというのを証明する為です。
だからこれを覆すような良い体験をしてしまうと、「これまでの自分が間違ってたってこと!?」という話になりかねないので、予定が幾ら幸せだとしてもそれは嫌だろうし、出来ないことにしておきたいですよね、と。


それと、「なります」「します」だと自動的に「どうやって?」が出て来る私のマインド…(笑)。
これも過去を検索した結果、適合しない結果が出たからという理由で沸いて来る文言ですね。
また、「なります」「します」には、"これからなる"という定義が含まれます。

言葉を返せば、まだなってないよー感がある。
ので、まだなってないよーにフォーカスしやすいという部分もあったんじゃなかろうかと思っています。
常識的な時間の流れを何処かで土台にしていたのは、実際大きいかなという話です。





もう一つの理由は、自分の使う言葉ではなかったということです。
「大体、『年収が~になりました!』なんて、どの場面でも私は言わないもんな…」
と思った訳ですよ。
上記の言い方は、作文っぽい文章ですよね。"わざわざ作った感"で一杯。嘘臭い(笑)。
作文用の文章は、元々自分の言葉ではありません。と、マインド的には思っている。
そこに現実味を見出せるかと言えば、私の生活サイクルの中に照らし合わせてみても、有り得ない話です。
じゃあ、普段の自分はどういう風に感想を述べるのか? を追及すれば良い話だなーと思い立ちました。

近しい他人様と、最近あった出来事を話している感じが一番近いかも?
または、その日の終わりに「はー今日は○○○○○○だったわ……」と脳内で反芻している言葉でもいいかな。

ということで、これを使って実験を始めました。そうしたらこれがヒットしまして。
私が現実味を感じる言い回しがこれでした、という発見をしたんですよね(でもまだ実験中)。




なので、アファメーションは『過去完了形』『自分が当たり前に普段使っている言い方』にしよう、と。
これでならない方もいらっしゃるかと思いますので、全ての人に当て嵌まるとは言いません。
が、所謂これまでのアファメーションでビタイチ現実が動かなかった方は、ちょっとトライしてみても宜しいのではなかろうかと思います。







週末は家に殆ど居なかった為、すっかり書いておりませんでした。



今、新月です(笑)。








6月9日 00:56~




がスタートなので、6月11日の00:58までが新月タイムですね。
って、あと僅かじゃん! 気付いた時には手遅れ…ではないギリギリの時間です。










新月じゃないと願望が実現しない、とかは有り得ませんので、日常的に願望を書くというので如何でしょ?
等と思っているのですが、新月は新月で楽しい時間になりますから、色々やってみたら宜しいのではないかと。




コツは、ですね。

「これからなる」のではなく、如何に「もう既にそうだった」という過去完了形の感覚を身体で感じられるか、です。


もうそれは結果として既にある。存在している。
だからブレないし、不安要素も無い。
「ならないかも」という言葉の挟まる余地が存在しないのです。
だって「もう既になった」んだから。



……というのを体感覚で感じられると、身体の方が「あ、こっちが現実か」と理解して、その場で結果を差し替えます。
変な言い方ですが、そうなんです(笑)。




そうなって完了したこととして捉え、つまりそれは"もう既に起きたことである"という感覚を詳細に感じ、思考し、世の中を眺めてみると、今とは全く違う感覚を得られると思います。
もしも望んだことを現実としたいのならば、先に結果ありきなのです。





描いた願望のリアルさをそこで感じられたら、それこそが現実になります。
リアルに感じられるかどうか、自分自身の言語で感想を言えるかどうかがポイントだと思われます。

今、色々実験しているのですが、結構面白いです。
私は人生について、「これから未知のルートを模索しつつ作り上げる」のではなく、「先に結果があって、そこに向かって行くだけ」なのだと理解しています。

だから結果とそれに関する感想はリアルにイメージした方が良いです。
結果が自分の中で先に確定すれば、無駄に不安に振り回される必要がなくなります。
妄想でぐるぐるすることもなく、ただ「はー、そうなのかー」で終わる話です。


口語体で・極めてカジュアルに・自分が普段使う言語で感想を言うと、よりリアル感が増します。
日頃基本的にですます口調の人は文語体でいいと思いますが(笑)。




ではでは、楽しい願望実現ライフをお送り下さいませー。







梅雨ですねー。
近所の紫陽花が満開で、とっても綺麗です。

そういえば、例年何故か梅雨入り宣言が出た途端、暫く雨が降らなくなる謎の気候って何でかなと(笑)。
そして梅雨明けが宣言されると、途端に雨が…。
今年もそんな感じでしょうか。






古典的に、現実化系統のジャンルでは「断定形で言い切りましょう」或いは「過去完了形で言い切りましょう」という、一種のルールみたいなものがあります。

アファメーションもそう、新月に書き出す願いもそうですし、手帳術的なやり方でも同じ。
ヒプノセラピー等のイメージワークでも、一般的にはよく使う方法です。




これはどういうことなのか? と言いますと、
「現時点の自分が望む結果は『既にもう存在している』という前提だから言い切って当たり前」
ということらしいです。


らしいです。


というのは何故かと言うと、断定出来る程にはサンプルが集まっていないので…です。曖昧ですみませぬー。
それに、他の誰かから直接この話を聞いた訳ではありませんし…あ、何かで読んだことはあるかも知れませんが(笑)。
とりあえず全ての人に言い切れる程には、確証がありませんで、現時点では"個人的に思っているだけ"、という話です。ごめんなさい。



でも多分そうなんです。
現在、実験中です。
日々小さなことでデータを回収していますが、このやり方で重要なのは、
『結果をイメージすること+感じること』
です。

古くから散々言われていますよね。
"まるでそうなったかのように振る舞え"と。
この一言に尽きるんですが、少し分解して言いましょう。




映像をイメージするのが得意な人にとって、イメージ(妄想)すること自体は非常に簡単です。
でも、「イメージしてもならないんだけど!」と怒っている人をよく見かけます。
人に依って"イメージ出来るのに現実化しない理由"は様々ですが、その中の一つは身体感覚が置き去りになっていることです。

身体感覚って、ちゃんと健康だけど? と言う人は、下記の後半が抜けている可能性があります。
ここで大切になって来るのは、まず食事をちゃんと取ること、身体を使って生活を感じること、「こんな筈は無い!」という現実逃避から目を覚ますこと、今ある現状に対してどう考え何を感じているかに向き合うことです。


そして、ポジティブなトランス状態に入れるかどうかも大切なことと言えます。
深い意識状態(トランス状態、瞑想状態)に入ることは何故重要なのかと言うと、現実に対し否定ばかりをするエゴの囁きから距離を置き、現時点でなっていないが欲する結果(=既にある未来の結果)を、今ここで感じる為です。

平たく言うと、『もうなった感』を如何に感じられるかが重要だということですね。
マインドだけで完結する妄想だと、身体で感じる『なった感』が無い筈です。
つまり、身体の細胞がこれを現実と認識しない。だからならないし、しない。
イメージだけが進んで行き、それは永久に現実と切り離されたままとなります。




また、現実逃避の為に妄想的イメージを作っている場合も、「そりゃならんわな」ということになります。
現実逃避とは、今ある現状に対して「嫌だ」「私は悪くない」「周りが悪い」「自分が望んだ訳ではない」「そんな筈はない」「私はもっと凄いんだ」等の、自己評価の高すぎる部分や、拒絶過敏症、世界との分離に依って、あらゆる(エゴにとって)都合の悪い現実を否定することから生まれます。

ぶっちゃけた話、現実逃避というのは現実が無ければ出来ないことです。
現実を否定している限り、その今ある現実は延々生産され続けることになるでしょう。
"何らかの存在するもの(存在しているとエゴが思っているもの)"に対してしか、否定は出来ませんから。

だからよく「手放しなさい」と言うのです。
でも逃避している時は、手放しているような錯覚に陥っています。
ある(と思っている)ものから目を背けるのと、執着を手放しフォーカスしなくなったことをごっちゃにしている。
渦中に居る時は全く区別が付かないと思います。

好きも嫌いも全てはマインドの作る執着です。言ってしまえば全部"思い込み"です。
全てを捨てろとは言いませんが、欲する現実に対して弊害が発生しているようなら、それが何かをしっかり見極めた方が後々ラクだと思います。





物質的な具現化は、スピリチュアリズムの中で初歩の初歩です。
殆どの人にとって、「ああなりたい」「あれが欲しい」という物欲的な部分からスタートすることは、至極真っ当で当たり前のルートと言えるでしょう。

具現化とか現実化とか書いていますが、実は我々の毎日は全て現実化の結果なのです。これもポイントです。
「ていうか、もう毎日毎秒やってるじゃん」なのです。
やってるというか、なってる? ある? なり続けてる? なった? だった? どれが一番近い言い回しかなー。

以前、記事に書きましたが、「これは私が現実化した(引き寄せた)けど、あとは違う!」というのはエゴのまやかしです。
何というか当たり前過ぎて当たり前のことですが、日々の全てが自分の現実です。
エゴにとって都合の良いことだけが現実なのではなく、他人様が関わったことは自分の現実じゃない訳もなく、生活の中で体験する全て、何もかもが自分自身の現実なのです。
一々「あれを現実化しよう」などと能動的に思わなくても、自動的に現実は生成され続けているということに気付かなければー…なのです。

「そんな筈はない!」ことなんて、ただの一つも無い。
「なんで! どうして!」と思い通りに行かないことを憤ったとしても、それはなんでもどうしてもなく、ただ単に自分自身の現実だと言うだけです。それが全て。



「でも私はこんなの嫌なんですー!」
も、エゴの使う常套句です。私もよく言ってましたわ。
だーまーさーれーたーーーー……エゴに(笑)。

だけど私は思いました。実際存在することに対して否定した所で、一体何になるのよ。と。
嫌だと言った所であるものはある。現実は現実。無かったことにはならないのです。
能動的に望んでいない(と思い込んでいる)からって、これは私の意識の現れではありませんと何故言えるのか、ということですね。

嫌なのは一向に構わないんです。それは実際そうなんでしょうから。エゴ的には(笑)。
じゃあ、別の何ならいいのか。ってことですよ。
あれもこれも今あるものは全て私の意識。結果が意識の全て。
とすると、今ある現実を見て自分の意識を確認し、別の現実に差し替えたらいいじゃないか。と私は思ったのです。




もう少し調査を進めて結果を出してからご報告出来ればと思いますが、私に関して言えば、時間の流れを根本的に勘違いしていたせいで理解がしっかりと出来ていなかった部分があったのだと思いました。
可能性レベルではなく、確たる結果として願望を認識し、既にそうなったかのように感じるには、私にとってこれが大切だったのではーと思っている次第です。

ざっくり言うと、『過去完了形で言い切る方式は正しかった』ということを言いたかったんです(←ざっくりすぎ)。
過去・現在・未来という時系列がどうなっているかの認識は、人に依って全然違うと思います。
だから「過去完了形や断定形で言うのは躊躇する」「言ったところで確信出来ない」のも、よく分かります。私もそうだったので。


言葉のチョイスが非常に重要だというのも痛感しています。
意識と言葉には密接な繋がりがあります。完全にシンクロしています。

我々の使う言葉には、時間軸の設定がいちいち含まれていて、「変化」「現実化」「現象化」「具現化」等は、一定以上のタイムラグを孕んだ単語として受け取れます。
となると当然、現実をそのようにする……もっと近い言い方をするなら、意識がその言葉を使用した時点で、『その現実に置き換わる』のです。
これを逆手に取ったやり方が、「なった」「なる」といった過去完了形や断定形ということですね。
流石、言葉はマインドが作り出すだけのことはあります。エゴですわー。



なんか書いてることが中途半端ですね。すみません。
何れ続きを書きますが、今日は肩が凝ってまして……あうー。
なのでこの辺りで(笑)。






★☆★





★6月ワークショップご参加の方々へ
明日でお食事会参加の出欠を締め切りますよー。
明日一杯で御連絡の無い方は、不参加扱いとさせて頂きます。
どうぞ宜しくお願い致します。






本屋の前を通りかかった時、懐かしい絵本が平積みになっているのを見ました。



からすのパンやさん (かこさとしおはなしのほん (7))からすのパンやさん (かこさとしおはなしのほん (7))
(1973/09)
加古 里子

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とても有名な絵本ですので、ご存知の方は多いのではないかと思います。
私は子供の頃に児童館で読んだ記憶があるのですが、何度も何度も読んでまた読む! と、丸暗記の勢いでしつこく読んでいたような…。

食欲の権化だった当時の私(笑)にとって、焼きたてのパンが出て来るこの絵本は非常に魅力的で、
「パンおいしそー…おいしそー…きっと食べたことのないような美味しさに違いない…焼きたてパンいいなー……」
と、モヤモヤ妄想に浸っていた記憶があります。





さて平積みになっていた本の隣に、なんと続編を発見。



からすのおかしやさん (かこさとしおはなしのほん)からすのおかしやさん (かこさとしおはなしのほん)
(2013/04/17)
かこ さとし

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からすのてんぷらやさん (かこさとしおはなしのほん)からすのてんぷらやさん (かこさとしおはなしのほん)
(2013/05/14)
かこ さとし

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からすのやおやさん (かこさとしおはなしのほん)からすのやおやさん (かこさとしおはなしのほん)
(2013/04/17)
かこ さとし

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平積みコーナーの所にはモニターが設えてありまして、作者であるかこさとし先生のインタビューが流れていました。
曰く、どれだけのことを考えながらお話を作っているのか、子供に対してどういう姿勢をお持ちなのか、伝わるように伝えようとすること、分かってもらいたいこと、子供とはどういう風に大人を観察しているのか、大人としての役割等々、沢山の想いを終始穏やかな笑顔でお話しになっていらっしゃいました。

私はその映像を立ったまま微動だにせず凝視していたので、通りすがる人達がこちらに対して若干奇異の視線を向けておられました…怪しかったようです(笑)。
何故そこまで凝視していたかと言いますと、先生のお話が優しさに満ち溢れていて、通りかかっただけの私でさえ胸を打たれる内容だったからです。
ちょっと涙が出そうになりました。



映像が終わって我に返った時、もうすぐ甥の誕生日が来ることを思い出し、プレゼントにしようと決めてレジへ持って行きました。
甥はこの絵本を読むにしては、少し大きいかな? という年齢です。
それでもこれにしようと決めた理由は、対象年齢が云々ということではなく、先生の絵本から溢れる子供達への優しさが僅かでも彼に伝わり、それがいつか彼の人生の良き糧になりますようにと思ったからです。



インタビューの全文と動画が、偕成社のサイトに掲載されています
ご興味がおありの方がいらっしゃいましたら、是非ご覧になってみて下さい。





プロフィール

Sachi

blog owner:Sachi
潜在意識を活用した、ちょびっとスピリチュアルな総合セラピー、癒しのワークショップ・タロットカードセッションをしているSachiです。
穏やかに楽しく成長出来るよう、入手した情報や、日々の気づき&
発見などをシェアして気ままに更新。
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旧blogタイトルは『気づきのステップ』。

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