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Category : 自己ワーク

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【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2017年8月13日・9月3日・10月8日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。全て11時~15時です。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

新緑の美しさが目に鮮やかですねー。
とか言っている間に、もう5月終了目前です。




長々と問題が解決しない、と言うなら、それはそれなりに目的があります。
ああならない、こうならない、と言うなら、そうである必要があります。

自分のマズイ所を直視しない為には、あれが問題だこれが問題だと言い続ける必要があります。
自分ではなく自分の外側に目を逸らし続ける為です。


つまり自分は愛されていないということにしておかなければならないし、愛されていないと言い張る為には相手が自分のニーズに沿わないから傷付いたのだと主張しなくてはならないし、相手が自分の為に色々尽くしてくれたとしても、そんなものは存在していないことにしないといけないのです。

鬼の首を取ったかのようにギャンギャン喚き立て続けないと、自分がヤバいことがバレちゃうじゃないか。
心の中でそう囁いている訳ですね。



私がそう言ってるんだから、これはそうだったのだ!
と、マインドは自分の言うことが100%事実であるかのように言い張るのですが、言っていることは事実に対して後から激しい編集を加え、適当に自分で繋ぎ合わせた「私は被害者で、傷付いている」という主張に沿った内容です。

どうにかして自分を被害者で居させたい。
という欲求は、心の中に隠し持つ"恐れ"に裏打ちされています。



自分は相手から愛されていないと言う時、自分が相手を全く愛そうとしていないことに対する疾しさを隠しています。
相手が自分の為に~~してくれないと文句を言う時、自分が相手の為に~~していない後ろ暗さを感じています。
自分が全く思いやりを示さないばかりか、ケチを付けることばかりを繰り返していて、そんな自分が宜しくないことを心の奥底ではよくよく承知しているんですねー。

宜しくない自分を直視して認めるよりも、隠して上から綺麗なラッピングをして、全く違うものに仕立て上げた方が良い、とエゴが言います。
だって自分のヤバさがバレてしまったら、これまでの自分の酷さが明るみに出てしまったら、どうなるか分かったもんじゃない、これまで手に入れたもの、確保したものが全部取り上げられてしまうかも知れないじゃないか。
償えと言われたらどうしようもない程、自分は悪いことをして来たんだから、責め立てられる前にとりあえず逃げておかなきゃ。
そうだ、自分の方が被害者だってことにしちゃえば良いんじゃない?
という理屈(屁理屈)によって、被害者と加害者を主客転倒させるのです。


例えば、自分が一方的な悪さをしたから親に凄く怒られました。という出来事があったとすると、
「あんな言い方しなくたっていいじゃないか。強く怒られて、凄く嫌だった。あんな言葉を使われて、凄く傷付いた!」
…なーんて、被害者と加害者をすり替えることは割とよくあります。
自分が何故怒られたか、親はどんな気持ちだったのかという事実については、全く無かったことにしてしまう。
とにかく、自分が被害者だということにしておけば安全だろう。そう考えるのです。
責任転嫁というやつですね。

素直に「ごめんなさい。私が間違っていました」と認めるよりも、「私の方が傷付いた! 何で謝らなきゃいけないの!」と言って逃げ続ける方が良いよ~、とエゴが囁き続けます。
更に、バレないようにする為、念入りに様々な行動を取ります。
如何に相手が酷いか。如何に自分は弱者であるか。等々、色々とでっち上げの証拠品を集め続け、足が付かないように頑張り続けます。


それはそれでやりたければ全く構わないのですが、先ず何よりも自分が苦しいです。
それをしている間は、ずっと怖いからです。
どんなに恵まれた生活をしていても落ち着かず、全く安心出来ません。
どうにか作り上げた歪な形の砂上の楼閣がいつ崩れ去るか、不安でならないからです。

他人や自分以外のせいで自分はこんなに傷ついている、と言う時、逃げられたような気がして一瞬ラクになります。
誰かを責めている時、自分の中には罪が無いと言って、一瞬ラクになります。
……そんなような気がするのです。勿論、錯覚であって、事実ではありません。



自分の不幸を他人のせいにする時、一瞬ラクになったような気がするので、ずっとそれを続けなければならなくなります。
誰か特定の人や現象のせいで不幸だと言い続けるか、或いは目に付いたものに対して片っ端から文句を付け続けるか。

そうすると、その為だけに生きなければならなくなるので、自分の魂が予定して来た人生計画とは残念乍らサヨウナラです。
自分がとっても伸び伸びラクに生きられる、幸せなコミュニケーションを取れる、自分に満足していられる…そういった毎日は望めなくなってしまいます。

だってそれどころじゃないですからね。
隠して隠して、逃げ続けて、被害者であり続けないといけない。
もっと厳重に固めて、もっと自分が不幸だと言い張って、その為には現象まで動かして…毎日毎秒、それだけです。
『幸せ』なんて、頭に無い状態です。





もしかしたら、そんなことをしなくても、そんな風に逃げ回らなくても良いのかも知れない。
立ち止まって、見直してみるのも良いかも知れない。

…そういう風に思ってみないことには、自分の心に正しい光が入って来られません。

「私の不幸は他人のせいである」と言う時、相手に自分の為の要求をしています。
そうすると、相手がその気にならない限り、自分の幸せは永久に望めなくなります。
しかし「私が不幸なのは何故だろう? もしかして他人じゃなくて、自分と関係あるのかな?」という理由を自分の心の中に求めるなら、自分がその気になりさえすれば、自分で不幸を手放して幸せを体験出来るという軸にシフトします。


他人を責めている時、自分を責めています。
きっと自分はこんなにも責められるに違いないと考え、それがバレないようにと恐れて逃げ回っているので、自分に対して「ちょっとまあ、落ち着きなさいよ。そんなに怖がることもないよ」と声を掛けましょう。

「私は何が怖くて逃げ回ってるのかな?」
と、自分に対し、親身になって聴いてあげることです。
怖れている部分は逃げ回っている状態で居たがりますから、直ぐには口を割らないかも知れないし、暫くは適当に嘘をついて本当のことを言わないでいるかも知れません。
が、忍耐強く優しく接してあげることで、「あれ…言っても大丈夫かな?」とちょっとずつこちらを向き始めます。



これには解決(幸せ)への意欲と忍耐が必要です。
それまでは怖れに乗っ取られて逃げ回る方がラクだと思い込んで来たのに、この作業をすることでその逆へ意識を向けるのですから、その作用からはどうにかして逃れようとするかも知れません。

問題があると言っている時、あれが嫌だこれが嫌だと言っている時、事実を認められない時、私達は「怖いよ~」と言っているだけなのだ、と先ず分かりましょう。
何を怖がっているのか、一緒に見てあげることです。


そうして少しずつ自分の心を理解して行けば、その後はラクな気持ちが増えて行きます。
日常的に嫌な気持ちを誤魔化す必要も無く、無理矢理どうにかする必要も無くなります。
自分の為に、心を見直す意欲を持たれますように。




はー、もう5月目前ですわー!!(笑)
あと少ししたら今年も半年終了。早い早い。そしてもーすぐ夏が…あわわ。←暑いの苦手





「良く思われたい」
「褒められたい」

という言い回しがあります。
ご相談頂く方からも、また知人達からも割と聞く機会が多い台詞です。
このニーズがある場合、何故それが自分の中にあるのか、元を手繰って行かれると良いでしょう。



良く思われたい。褒められたい。
これは未来形の言葉です。「なりたい」とはつまり、「今はまだそうではない」という言い方。
今はまだ良くは思われていない、ってことです。


とすると、「現時点で自分はこう思われている(筈だ)」という前提があるって話ですよね。

ですからここで、

「私は現在、周りの人からこう思われている、と考えている」

内容(思考)を炙り出すと良いでしょう。
「なりたい」以前に、「今はこうです」が分からないとねー、です。
「今はこうなのですが、今後はこうなりたいです」という風に、明確に出来ると自分でも目指す先がはっきりします。




現状使っている思考をはっきりさせたら、次は「何が理由でそのような考えを持っているのだろう」という箇所に意識を向けましょう。
それなりに出所がある筈です。

誰かに言われたことがある、というのが結構多いかも知れません。
何かの体験をした際に、その体験を元に自分で解釈した、定義付けた、ということもあるでしょう。
何にせよ、使っている以上は必ず出所があります。

そこまで行ったら次は、「それは真実だろうか」と問いましょう。
自分は生まれた時から、或いは生まれる前からそのような人であるのか、過去はそうであったにせよ、この先もずっとそうなのか、それは動かし難い真実であるのか、です。
「自分はこのような人です」と思っている時、そのような言動をしっかり取ってしまっているでしょう。
我々は思考している言語に従って言動を行うからです。




「良く思われたい」というニーズを持っている時点で、「私はそうではなく、○○だ」と自分で言っていることになります。
しかし何らかの理由で「それは嫌だ、認めたくない」と考えている。
その部分を補填または誤魔化す為に、「良く思われれば不完全な自分は、元からそうじゃなかったことになるのではないか」と考えるんですね。

『"良く"思われる』のが目的だとしたら、ポジティブなものを目標にしている訳ですから、そこを見据えた時点でポジティブな気持ちを体験していることになります。
でも、「よく思われたい」と言う時、心の目が『私は○○だ』というネガティブな何かを隠したくて言っているのであれば、気持ちがネガティブです。
焦る、逃げたい、嫌だ、怒りを感じる等々、大体宜しくない気持ちを体験していることになります。
自分はそのどちらであるか、特定し直すことも大切です。


偶々今回はこの言い回しを取り上げていますが、自分のことを不完全で曖昧で欠損だらけの後ろめたい存在だ、と思っているのは普通っちゃー普通のことです。
誰でも意識の奥深くにはこのような思考が根深く存在しており、ここから逃げたい、これを無かったことにしたい、という欲求が「褒められたい」とか「良く思われたい」、「ああなりたい」「こうなりたい」「あれが欲しい」といった数々のニーズに繋がっていることが大半です。
喜びを求めているのではなく、苦痛や現実を否定したいのだということになります。

私達は体験したことそのもの、目撃したことそのものに対し、自分を繋げて解釈する癖を持っています。
物凄いスピードで現象と解釈をくっつけるので、まるで現象そのものに意味があるように錯覚しています。
自分が意味付けをし、解釈をすることで、心が揺れる。
注意深く自分の思考を観察していると、一日の内の多くはネガティブな揺れ方をしていることに気付くでしょう。
この宜しくない感じで動揺している自分の心を、私達はどうにかしたい訳です。
咄嗟に誤魔化そうとしたり、逃避しようとしたり、忙しく頭の中を回転させます。



褒めてくれないと、どうしようと思う。
…褒めて貰えない自分は、劣っているのではないか。

自分に同意してくれないと、怒りを感じる。
…同意されない自分は、間違っているのではないか。


そんな風に、いちいち外部のあれこれに対して反応しています。
反応する理由は、心の中で自分が自分をそのように(↑の例のような内容を)考えているからです。
だから形から入ったり、外側を固めて、『それを見えなくして、心を安定させたい』ということですね。



でも、残念ながらなりません。安定しません。幸せではありません。
仮に形を作ることが出来たにしても、心を誤魔化す為という理由では、外側から心にまで影響を及ぼすことは非常に難しいのです。

一瞬ホッとするかも知れない。一瞬嬉しい気がするかも知れない。本当に、一瞬だけ。
何故なら、自分の心が『見たくない・認めたくない所』をガン見し続けているからです。
また戻って来て(実際はそこから動いていないのですが)イヤーな気持ちになって、直ぐ目を逸らそうと外側へ…。
イタチごっこのような繰り返しです。これには終わりが存在しません。



もし繰り返しに疲れて「そろそろこれから手を引きたいなー」と思うのであれば、まず歩みを止めます。
それから、「どうして私は褒められたい、良く思われたいという考えを持っているのだろう。目的は何だろう」と、自分に問い掛ける必要があります。

どんなルートを辿っても、
「私自身が自分をこういう人だと思っていて、それを隠したい・無かったことにしたいからだ…」
と、自分が自分に対して持っている考えに行き着くでしょう。
誰かにそう言われたから、というのがスタートだとしても、それをそのまま採用したのは自分です。



誰かに何かを言われなくても、形を無理矢理変えようと頑張らなくても、自分だけが自分の考えに気付き、手放すことが出来ます。
一つずつ認めて、手放して、楽になって行かれますように。






毎度blogへ訪れて下さる皆様には、深く感謝致しております。
インターネットの世界は『ワールドワイドウェブ』ですからね、本当に色々な方がご覧下さっているのだなとしみじみです(笑)。




長い間、色々な方のご相談を伺って参りましたし、みんな結局は何が嫌かと言えば

『自分を○○だと思いたくない』

に集約されているなと気付きました。



例えば、他人様に陰口を叩かれた。
それが凄く嫌だ。

という問題を抱えているとすると、事実である『他人様が自分の陰口を言った』という事実・現象そのものが嫌な様に知覚してしまいがちですが、実際はそれに対して自分がどういう解釈をしたかというものから「嫌だー」が発生しているんですねー。

同様に『両親の仲が悪かった』のが嫌だったとか、『子供の頃に両親が離婚した』から自分は不幸だ、と思っている間というのは、事実と解釈を混同していることになります。
だって本当は関係ありませんから。


仮に「外側で何かが起きたことによって、自分はネガティブな想いを抱いているのだ」と思っているとしても、実際は何がどうして嫌だったかを突き詰めて行けば、最後は全て自分に行き当たります。
それと関連して、様々な問題が解決しない理由は、『自分が事実・現実を認めない』というこの点に尽きます。



自分の思考をよくよく見直す訓練をして行くと、ごっちゃになっていたものが段々とパーツ毎に分けて見られるようになって行きます。

事実・現実と自分の解釈は別。
自分が行った解釈を事実・現実と取り違えている、または混同していることで、意味不明な状態に陥っている。
事実そのものはどれ? 何故、嫌な思いをしていることになっている?


と、自己の思考を見詰める訓練を続けることで、はっきりと見るべき場所を見られるように、自分の視点が絞られて行きます。



事実・現実を色付けせずに抜き出す作業というのは、化石の発掘とか、土に埋まった何かを掘り出す作業に似ています。
周りにはべったりと土や石ころやその他諸々がくっ付いていて、恰も一体化した大きな塊のように錯覚しています。
この現物以外のくっ付いているゴミが、私達の顕在意識が「そんな筈は無い」とか「ああなんじゃないか、こうなんじゃないか」「あの人がそんなことをした理由は、きっとああでこうで…」と行っている解釈やこじつけや改竄捏造その他あれこれです。
この周りのあれこれも混ざった状態でズボッと持ち上げ、全部一緒くたにして「これが私の体験した事実だ!」と言い続けていたりします。

この時くっ付けている不要な塊の量が多い程、本当に見るべきものが見えていないことになります。
でも、事実は形を変えたりしませんから、よくよく見て注意深く土や石ころを捨てながら掘り出せば、その時のまんまの形で取り出すことが可能です。



さて、上記の例に出しましたように「誰かに陰口を言われて嫌だ」という体験をした時、一般的には如何にも自分は被害者で、陰口を叩いた人が悪人かのように解釈しますよね。
確かに陰口を叩くという行為自体は褒められたものではないし、宜しくはないことでしょう。
でも、これによって他者を詰り続けた所で、別に解決はしません。
全然しない。全くしない。

こういった体験をした時、物凄く嫌な思いをしてぐるぐるに…という人はよくいらっしゃることと思います。
では、「自分は何故、具体的には何が嫌なのか」に注目されたら良いでしょう。
誰にとっても「言われたこと(=体験した・目撃した事実)そのものが嫌だ」ということは有り得ません。
事実・現実というものには良い悪いのカラーが無いからです。ゼロ。無味無臭。
しかしここに、自分がどのような解釈を挟んだかによって、カラーや良し悪しが付加されることになります。



一例ではありますが、「やだなー」という体験をする時、我々はほぼ無意識的にこのような思考プロセスを辿ります。


スタート「自分の陰口を言われた」

⇒「自分は陰口を言われるような人なのだ」

⇒「それが認められない。自分がそんな人であると思いたくない」

⇒「みんなに好かれる人だと思っていたい。自分に非が無いと思っていたい」

⇒「でも、ああいうことがあったから、どうにかしなきゃ…」

⇒「もっと良い人だっていうのを見せたら、そう思われなくなる? もっと凄いって思われればいいかな?」

⇒「あ、嫌なら遣り取りしなきゃいいんじゃないかな。関わらなきゃ、他人から嫌なことを言われたりしないだろうし…」



以下、その他延々続く(あくまで一例です)。
こんな感じで、日常的に私達の頭の中ではドミノ倒しのように思考が展開しています。


この二番目の段階で「そうか」と完了出来る人も居ます。
事実をありのままに認められる思考形態を持つ人は、体験したことについていちいち文句を挟みません。

自分で自分を検証し直して

1⇒「本当に自分にはそういう所があるので、言われたんだな。確かになー」

と納得するか、或いは

2⇒「全く身に覚えが無いし、だから別段嫌な思いもしていないので、ほっとく」

というように、執着せずに居られるのがこのタイプです。

1の場合、「じゃ、次回からこのように改善しておこう」へ動くか、「ま、別にいいです。自分はこれでOKなんで。だから他人様がどう思っていらっしゃっても結構です」のどちらかが次の選択肢。
2の場合、これで終わりです。
どちらも、自分の心が平和で安定している状態ですね。




自分は100%好かれる筈だとか、良い所のみの筈だと思っていたい(妄想自己評価が高い)人は、現実に対し嫌な思いをすることが多いことでしょう。
良いこと100%でウハウハだーなんて有り得ない話ですから、下手に色々期待しているせいで「毎日ガッカリ体験ばかりだー」と思うんじゃないでしょうか。

自分が体験した現実について、嫌だ、辛い、苦しいと言い続ける時、事実を――――自分に纏わる現実を――――認めまいと格闘している状態です。
陰口を言われた、嫌だ、だからどうにかして無かったことに出来ないか…そんな風に考えている間は、やっぱりすごーく嫌な思いをし続けるんじゃないでしょうか。


ここで他人の思考を操作することを選ぶ人は、色々なアピールやマウンティングに精を出し始めます。
「こうしておけば完全無欠だって思われるでしょ? 私に駄目な所なんて無いよね?」って感じで、所謂『他人軸』はこうして完成するんですね。
逆に、「自分が駄目な奴だからだ…ごめんなさい…」という受け取り方をする人は、自己評価をずーんと下げます。
自己評価を下げ過ぎると、現象として体験する出来事がリアルに不幸な方向へ傾きがちです。
どんな解釈をしようが、一旦目的・体験してしまったものを、無かったことにすることは不可能です。



自分に対する期待値(自己評価)が高いと、日常的に腹が立ったり嫌な思いをする回数は増えます。
自分に対する期待値の高さイコール、周囲や他者や現実に対する要求の高さです。
で、この要求のが叶えられないことで、「傷付いた」「私は被害者だ」と言いたくなるような体験が目白押しになってしまいます。

嫌な体験をしたと思う時、その裏には「自分を○○だと思いたくない」という思考が隠れています。
そこまで突き止められたら、じっと静かに自分の思考を観察し続けていられたら、いずれ納得する時が来ます。
「どう思いたいと言おうが、自分をこう思いたくないと頑張ろうが、嫌だとか苦しいとか言おうが、事実体験しちゃったからな。これが現実かー」
ですね。

可能であれば、「あー、私は自分のことをこんな風に思っていたかったんだな。でも、事実は違ったんだなあ」という風に自分を受け止められる所へ到着すると、納得して終わるんじゃないかと思います。
「私はこういう人なのか。そうか」「事実はこれでした」でゴールです。
これには良いも悪いも無く、そのまんま。
他人がどう言おうが、思われようが、自分で自分/事実を概ね理解しているので、特に動じることも無いと。



毎日体験・目撃する様々な出来事と、それに対する解釈を見直して、事実&自分を取り違えていないか、引き摺ったまま勘違いに突っ走っていないか、チェックすると良いでしょう。
過去の嫌な出来事も、自分の中で事実として認識が完了すれば、それで終わります。
嫌な思いを反芻する必要が無くなるんです。

自分が抱えている思いを誤魔化したり、逃げようとしたり、抑え込んで無かったことにしようとする必要が無くなる。
それだけでも、すごーくラクなんじゃないでしょうか。
無駄なエネルギーを浪費していた部分が、手放せるんですから。




近所は桜が満開です。
例年、満開とほぼ同時に訪れる強風・雨…(笑)。
散り桜も綺麗でいいですねー。





『引き寄せ』や『願望実現』には飛び付くし、パワースポットは大好き。
周りがどんどん良くなって、何でも思い通りになるなら遠くでも出掛けます!
心を見るのもやります。
『親が自分の要求に応えてくれなかったから傷付いた』というような、「ああして欲しい、こうして欲しい、なのにくれない」というニーズから来る傷を癒すのも大好きです。
過去世退行も沢山して、書き換えました!

…でも、一様に大概の人が嫌がることと言えば、『これまで繰り返して来た自分の言動をシビアに見直す』ことです。
一般的に、人間は誰かにこうされた、言われた、してくれない、というような、『誰かのせい』に出来ることは大好きなのですが、自分がどのような言葉を使い、どんな表情を向けて、どんな行動を取って来たかについては、殆ど意識が無いというのがありがちな話です。



「ああして欲しかったんです…でもして貰えなくて、悲しかった」
とわんわん泣いて、それで気が済むならそれで良いのです。
が、抑々どうしてそうして欲しいと思うのか、それは何の為かという部分に目を向けられると、思考パターンの解明に繋がるので尚良いのではないかと思います。

上記の例で行くと、『相手が自分の要求を呑むべきで、それは当然のこと』という前提を使っていることになります。
『他者は自分が欲しいものを寄越すべき、思い通りの言動を取るべき』という目で、他人を見ています。
また、世界は自分の思い通りになる筈だと思い込んでいる幅が広い程、それに比例してガッカリ体験は増えます。
この要求⇒ガッカリ(殆どの人が怒りを抱きます)という体験を、「心が傷付いた」という風に一括りにして、「じゃあ癒されたら思い通りになるのだ」⇒「やっぱり自分が思う通りに他人は動くべきだ」と誤変換を起こしているケースを多々見て参りました。



不満が強い時は、大概視点が外に出たままで戻って来ないので、その間の自分がどのような言葉を使ってどんな印象を他人に与えているか、気付かないでしょう。
更に言えば、どんな思考で頭を一杯にしているか、全く分からないのだと思います。
不満が多いのは傷付いているからだと言うのであれば、それは強ち間違いでもありません。
何が傷付いているのかと言うと、高すぎるプライドが、です。自己像が高過ぎるんですよね。

「なんでならないの!?」という内容を見直されると良いでしょう。
一般的にそれがハイソな内容だとしたら、自己像をそこに見積もっていることになります。
大金持ち、大スター、超の付く玉の輿、等々。
実現の可否について言えば、実際の自分は"元々、本質的に"そういう人であるかどうかと深い関係があります。

また、「周りが自分の思い通りに~」「何でもやってくれて~」といったことだとしたら、自分に対する見積もりを根本的に見誤っています。
「自分の言動を全て『いいよー』とOKを出してくれなきゃ嫌だ」についても同様です。


スピリチュアルの本には、『願えば何でも叶う』的な内容が書いてあることも多いのですが、私は荒唐無稽な内容については現実化以前の話であって、まず有り得ないと思っています。
使っている自己像が、抑々自分では無い架空の存在であれば、そこから派生した願望も架空の存在です。

元々の自分がどのような人であるか、現実を認める。
その為には、自身が何も考えずに繰り返している言動を見直す。
「こんなことばかり言ってたんだ…」「こんな風に自分で態々やってたんだ」
ということがゴロゴロ出て来ます。


その内、自分の思考について目を向けるようになります。
問題は自分の思考の方にこそあったのだと気付いて行くと、自分の心を糺すことになります。
周りが思い通りにならない! 願望が達成されない! と腹を立てるよりも、そういうことをずっと言っている自分の思考・言動を見直す方が着実に結果が出ます。

「私は一体、何を理由/目的にこれを欲しているのだろう。どうしてそうなるべきだと思っているのだろう。本気でそれが有り得ると思っているのだろうか」
こんな感じのことから見直し始め、日頃他人様に向かって行っている自分の言動をじっと観察し続けます。
実際にどんな言葉を使い、どんな態度を取っているか、自分を客観的に観察するのは訓練が必要ですが、続ければ徐々に身に着いて行きます。
こういう時、「自分はこういう風に振る舞っている…筈だ」という先入観は捨てられたら宜しいですね。


インスタントな願望実現も楽しいでしょうが、回り道に見えても、結果的には幸せ・平和を体験しやすくなるのは多分こっちです。
心が平和であること、感謝を感じる体験が人生で増えて行くことに価値を感じるなら、自分の言動を毎日見直すことがお勧めです。



以下、仕事以外の場所での会話です。


「自分は褒められたい人だから」


とよく仰る方とお話ししていました。


「それって、何の為なんですか?」


と訊いてみました。



「え」


その方は固まってしまいました。


「考えたことが無い…」







褒められたい、評価されたい、認められたい、良く思われたい、見られたい、全て肯定されたい。
それをよく言う、思うなら、それは何の為であるか、見たら良いですよー。

大体は
「自信が無いから」
というのがお約束のような理由だったりするんですが、じゃあ褒められたら本当に自信が付くのか。という話になります。


例えば貯金のように、ちょっとずつでも自分の中に貯まって行くものなのか(500円玉貯金とかありますよねー)。
だとすると、褒められる度に自信とやらが身に着いて、段々と褒められたいという欲求が減じて行く筈です。

でも、欲しい欲しいちょうだいちょうだいと言う量が減らないのだとしたら、意味が無いことになります。
下手をすると「大人の癖に、いちいち褒めて貰わなきゃ何も出来ないのか? うぜえなあ…」と、評価が下がりかねないですよね。
となると、一体何をしているのかということにー。




この癖を持つ色々な人にお話を訊いてみた所、褒められた時は一瞬嬉しいような気がするそうです。
得意満面、自分最高! 私、見られてる! って思う。
でも、数秒も持たずに「もっと言わせなきゃ」というアピールで頭が常に一杯なのだそうです。

それらが何になっているか、見たことは無い。
人生を振り返ると、それらが自分にとって何かになっている様子は特に無い。
少なくとも幸福や納得や満足とは関係無さそうである(だっていつまでも要求する量が減らないから)。

他人様の評価が不要だと言っているのではなく、その前に先ずは自分で自分を評価したら良いですねー。
自分が納得行く、自分への評価があると思います。事実に基づいた評価です。
そうすると、他人様からの評価も落ち着いて受け止められるでしょうから。
他人様の言動で一喜一憂する必要が無くなる。
思考の軸が外側になっていたのが、自分に戻って来ます。



「こう言われたい、して欲しい、そうしたら愛されていると思える」
と言うのなら、デフォルトが愛されていないと思い込んでいる(または、そうだということにしておきたい)状態ですね。
そう思うなら、それなりの理由が自分の中にあります。
「それは私が云々だから」という理由です。
例えば家族がこうだったから、というのはあんまり関係無いことです。
自分がそう思っている以上、自分に理由があります。

因みに誰かがこう言ったから、したから、してくれなかったから不幸なのではなく、それについて自分が意味付けをすることで幸不幸を決めます。
だから後で正しい解釈に修正することが可能で、不幸だという認識からは抜け出すことが出来ます。



という訳で、例えばお仕事ならお仕事、今日一日なら今日一日、誰かとのやり取りをした自分ならその時の自分を振り返り、自分で見直してみましょう。
自分で自分をどう評価出来るか、じっくり見る。

そこをすっ飛ばして、アファメーションなんかで自分を褒めたとしても、現実が伴っていないなら、やっても徒労に終わります。
やれば良いというものでもないです。現実・事実を見直した上で、というのが重要です。
アファメーションやイメージワークなんかは、自分で作り出した現実を捻じ曲げる為に使うものではないので、現実と上手に仲良くする為に使われると良いでしょう。



自分で出した評価と、外側の評価が限りなくイコールであることが望ましいです。
事実を正しく受け止めている、ということですから。
ここに著しい開きがあるなら、何度でも事実を見直されると宜しいでしょう。
解釈の仕方、受け止め方が間違っているなら、その間違いを糺せば良いということです。
外側に間違いを見付け、押し付けようとするのではなく、自分の見る目がどうかを見直されるのが一番建設的です。



プロフィール

Sachi

blog owner:Sachi
潜在意識を活用した、ちょびっとスピリチュアルな総合セラピー、癒しのワークショップ・タロットカードセッションをしているSachiです。
穏やかに楽しく成長出来るよう、入手した情報や、日々の気づき&
発見などをシェアして気ままに更新。
イベント情報も随時掲載中です♪

旧blogタイトルは『気づきのステップ』。

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