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Category : 癒しと解放

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【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2018年2月18日・3月18日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

先日降った雪がまだ解け残っております。毎日冷凍庫みたいですね。
冷蔵庫の中の方が暖かいのではないかなーと思ったりする日が続きました(笑)。




先日、ネットでこういう記事を見つけまして。
キャリアウーマンから恋愛コーチ・婚活アドバイザーさんになられた方についての記事ですね。


『365日中300日ノーメイク、28歳まで女らしいことと無縁のキャリアウーマンでした。
 しかし心機一転、毎日メイクしストッキングとヒールを履き、モテるための方法を習慣化。
 努力の結果、29歳で彼氏が出来、結婚しました。』



おおー、ご自分で結果を出された方ですねー。素晴らしい!



非常に実践的な内容の記事です。
結婚したいけど相手が居ない、彼氏が欲しいけど相手が居ない、これから運命的なソウルメイトと劇的な出会いをする筈だ! と仰る方は、是非ご参考になさると宜しいでしょう。

普通のことを普通にやると、周りの対応も普通になります。
ヤバい・イタい状態で居ると、腫れ物扱いをされます。ただそれだけのことです。
周りの反応や自分に対する視線や雰囲気をよく観察すると、自分がどう見られているか=自分がどういう生活態度で居るかがはっきり分かります。

「誰にも何も言われないのは、自分には何の問題も無いから」ではないかも知れない訳です。
「性格が悪すぎて、噛み付かれるのが分かり切っているから」かも知れないし、「ヤバすぎて誰も近寄りたくないから」かも知れません。


この方の記事のように、『身なりに一切気を使わない』人が悪い訳ではありませんし、彼が出来る人は出来るし、結婚する人はします。
だけど、自分がそうなのに、相手に「超イケメン」とかいう条件を付けてしまうとなると、話は変わって来ますよね。

自分がヒステリーで上からしかものを言わない人間なのに、相手が凄く優しいとか何でも喜んでやってくれる、なんてことは有り得ません。
形だけそう見えたとしても、内情が伴っていない筈です(キレたり後々しつこく突かれるのが面倒で、上辺だけ従っているのかも)。



この方の記事だけでも大変参考になるとは思います。
が、スピリチュアル的な観点からこういう内容を見てみますと、『自分が本当に・心底そう思っていたら現実として体験する』という絶対ルールがあります。

「自分は身なりに一切気を使わないとしても、超イケメンでオシャレな彼に超好かれる」
という思考を"本当に"持っていれば、それは現実として体験されるんです。


とはいえ、思考が一方通行ということは無いんです。
「他人はダメだけど、私だけは特別だからそうなのだ」
という考えは、実際にはありません。通用しません。

何故なら、自分に対して考えていることを他人様にも必ず適用するからだし、他人に対してどうジャッジするかは自分に対するジャッジがネタ元にあるからなのです。
他人様はこうだけど、自分に対しては別で…そういう風に私達は分けて考えてしまいがちですが、全然そんなことはありません。
必ず、自分を重ねて見ています。これを『投影』と言います。


『自分が本当にそう思っていたら』と度々書いていますが、本当にそう思っている、というのは表面だけの話ではないんです。
潜在意識以下で、ということですね。
潜在意識と顕在意識の区別が付くかどうかは、訓練次第です。
私達は「思っている筈なのに、ならない!」と考えるからこそ、色々なセミナーに行ったり、How to本を読んだりするのですが、自分の現実をよく見直すこと、事実をはっきり把握する意識を持つことがとても重要です。

「思っている」のに「ならない」等ということは、ありません。「思っていたら、なる」んです。
逆を言えば、「なったもの・体験していることを見れば、自分の思考が分かる」。
これを踏まえて、自分の現実を見直してみる。


「自分はこのままで居ても、モテる筈だ」と思い込んでいるとしても、現実的に全くモテないなら、『そんな風には思っていない』。
「自分を改めなくても、アファメーションをやれば結婚できる筈」と言いたいのだとしても、その気配が全く無いなら、『そんな風には思っていない。結婚する気は無い』のだと言えます。

また、自分を見ることを徹底して忌避して来た人の場合だと、他人様に対する妬みでそれを測ることが出来ます(こういう風に書くのもどうなんだろう…笑)。
モテる人、モテそうな人に対し、怒りを感じる、イライラを感じるとかですね。
大概、上辺では別の理由をくっ付けていると思います。妬んでいるなんて認めたら、プライドがズタズタですからね。
「でも、実際は妬みなんじゃないの? 羨ましいんじゃないの?」と自分の思考を見直されると良いでしょう。


芸能人やモデルさんが相手でも必ず投影しますから、何を見ても自分の心が分かります。
「これだけ可愛かったら、そりゃモテますよ」と自分の思考が呟くなら、捕まえましょう。
「見た目が可愛いからモテる」とはっきり認識している、ということです。

で、自分の現実を振り返って自分はモテないのなら、口先で何を言っているとしても「それに引き替え、私は○○で○○で、だからモテるどころか(以下略)」と思っていて、その考えに一点集中しています。
こっちの自己価値を見ているから、腹が立つんです。
でも、直視しないで居ようとすることが大半な為、怒りに誤変換して「私、この子嫌いなんだよね」とか言い出しちゃったりもします。
相手に嫌いな理由を押し付ける時は、自分の中の何かを見たくないからなんです。



…自分を振り返ること、自分の事実・現実を誤魔化さずに知ること無くして、変化はありません。
事実に気付かないと、です。それは何についても同じなのだと思います。
自分の中をよく見ること、いつも使っている言い回しに逃げないこと、「本当は」どう思っているのかを見直し続けること。
こういったことを続けて行けば、別の道が見えて来るでしょう。




お正月気分も抜け、平常運転に入った方も多いでしょうか。
これからまだ寒くなるのかなーと思いながら、暖房器具やお洋服のありがたさを感じております。



さて。
私達と人やものとの関係性は、双方向性です。一方通行はありません。
何が双方向かと言うと、思考・心が双方向性なんです。


私達は、自分の思考を他者に対し隠せると思い込んでいる節があります。
口先だけで取り繕えば、本心は届かない、見えない、伝わらない、影響が出ない。
嘘を吐き通していられる。
そんな風に思い込んでいたいんですね。

しかし実際に伝わるのは目先の口八丁ではなく、思考・心『だけ』です。
自分が相手を馬鹿にしていたら、相手にそれが伝わります。
自分が相手に対し愛や喜びを感じていたら、当然それが伝わるでしょう。
そうして、自分の思考に対する結果を出し続けます。逆もまた然りです。


「結果(現実)を見れば自分の思考が分かるよー」
というお話は繰り返ししています。本当にそうです。
まずはこれを認めることが非常に難しいのではないかと思います。
『引き寄せ』をしたらそうなった! 私がそう思ったからだ! …と言うのは簡単でしょう。
何しろ、能動的に望んだという自覚が自分の中にはっきりある訳ですから。

でも、私達の生活で体験することと言えば、その自覚が無いものが殆どです。
特に、嫌なこと。アクシデント。不幸の一切については、「私はそんなこと望んだ覚えはありません!」と言いたくなります。
凄く分かります。そうだと思います。私は不幸が自分の考えであることを、どうしても理解出来ませんでした。


しかし、地道に自己理解の道を歩んでいると、「あ」という体験を何度もします。
「あ、私だ! 確かに私の中にこの思考がある!」
ということに気付く時、全身でガックリします。涙や笑いが出ることもあります。

他人様が一方的に自分に対して何らかの思考を抱く、ということではなかったのだと分かった時、私は物凄く驚きました。
また、自分が一方的に思考を持つということもあり得ないのだ、と思いました。
これが分かるには、自分の中にある思考をよく見る、現実と照らし合わせ続けるという作業が必須になります。
日常的にこれをしないと、ずっと分からないのではないでしょうか。
自己理解、癒しというのは毎日の地味な作業あっての賜物です(笑)。



「自分を物凄く愛してくれて、可愛がってくれて、何でもやってくれて、無制限にお金を使ってくれて、甘やかしきってくれる人と出会いたい! そういう人と結婚したい!」
「自分の素晴らしさ、まだ見出されていない天才的な才能を分かってくれる人との縁が欲しい!」
というお話を度々聞くのですが、まーそれはそれでいいです。

ところで、自分はどう振る舞うんでしょうか。
相手にどういう考えを持つんでしょうか。
どういう姿勢で、どういう態度で、どういう言葉を使い、どう扱うつもりなんでしょうか。
だって人間関係ですから。関係性を持ち、体験するんです。自分が、相手と。


『自分はどうするか、どう在るか、何を考えてそうするか』
を見落として、要求だけを並べ続けても、良い体験には繋がりません。
自分は特別なんだー! とか、この位当たり前でしょ! っていう考えを以て言動を取り、振る舞うと、間違いなく相手に不快な思いをさせます。

そうすると、愛してもらえるどころか、「とんでもない奴だ」「なんだこりゃ」と嫌われたりします。ええ、まあそれが普通です(笑)。
そういう当たり前の結果を自分で出しておきながら、どうにか隠したり外側をコントロールしようと躍起になっている時、自分の中にある罪の意識、怖れの思考と一体化しています。


一旦、現実をよく見て結果を受け止めないといけません。
「ん? 私は実際、どう見られて、どう思われているんだろう?」
ということを正直に考え直すなら、軌道修正が出来るでしょう。
でもここで、「相手は自分をこう思っている『筈』だ!」と自分の考えで作ってしまうと、平行線ですね。

自分の考えや不満や要求で頭が一杯になっていると、他人の考えや気持ちには興味関心を持つことが出来ません。
自分の欲求を通すこと、要求を突き付けることばかりを考えていると、直接的に自分の首を絞めることになります。
周りに良くして欲しいとかこう思って欲しいというニーズを持つ時、大体自分は人に対してやっていません。
『やっているつもり』にはなってることでしょうし、『やっているフリ』はしているでしょう。…いえ、実際はやってないんですけど(笑)。



「愛されていない!」「攻撃された!」と怒る時、相手を攻撃し要求する前に、自分が相手を愛しているかいないか、自分が相手に対し悪意を持っているかどうかを正直に見直さねばなりません。
見直すことなく「自分はこんなに赫々云々なのに、相手が…!」と捲し立てたくなるでしょうが、でもやっぱり不満が少しでもあるなら自分の中を見直せ、自分の思考と言動と振る舞いと態度を見直せというサインです。

毎日是非、見直し続けましょう。
不満の種は自分が蒔いていることに気付けますから。
自分に原因があることを知るなら、自分で糺して行くことが可能ですから。




2018年になりまして、早3日目ですねー。
明日からお仕事、という方も多いのではないでしょうか。
とってもとっても寒いので、身体の内側も外側も暖かくして、万全の態勢でお出掛けなさって下さいませ♪



私が自分の昨年を振り返ると、「それまで分かっていた気になっていたことについて、理解が改まったことが幾つもあったな~」という一年でした。
特に年末に近付く程、それが加速して行く感じでした。
理解は文字を追ったり知識だけ手に入れても追い付かず、体験しないと分からないものです。
ずっと前から本では散々読んでいた筈なのに、「今頃分かった…そういうことかー」と思ったことが沢山あります。

特に、人との関係について。様々な特定の事象との関係について、ですね。
私達は一生を通じて様々な方との遣り取りがありますが、何の為に出会うのか・ご縁が出来るのかを、改めて深く考え直すことになりました。


例えば、所謂『ソウルメイト』でなくても、ご家族、友人、恋人、職場でよく遣り取りをする人や、ご近所さん、クラスメイト、よく行くお店の方等、ご縁のある方は幾らでもいらっしゃいます。通りすがりの人も含め、その数は膨大です。
その他、私達はペットや組織、団体、お金、仕事、健康、その他諸々と様々な関係を結びます。
私達はこういった自分対他者との関係で何を見ているのかと言うと、『自分に対する自分の思考』を見せて頂いています。

度々書いておりますが、誰かに「嫌われた」と言うなら、何らかの理由があって自分が自分のことを嫌っている訳ですよね。
その人は自分の中にあるその思考を見せて下さっている、ということになります。
誰かに「ああしろ、こうしろと指図・要求ばかりされている」と思うのなら、自分が自分を裁き、自分に対して「ああしろこうしろ」と要求しているのです(勿論、他人様に対してもやっていることでしょう)。


自分の中に隠し持つ沢山の苦痛を、怖れを、外の世界を通じて見ている。
エゴの思考体系からこれを見る時、「自分は潔白で、相手が悪い。だから相手が変わるべきだ。自分は被害者だ」というフィルターを使うことになります。
しかし愛に基づいた思考体系で見ると、関係を体験する本当の理由とは、『自分の心が抱えている怖れを手放す為、苦痛を手放して癒される為』です。

俄かにはそう思えないとしても、自分がトラブルだと感じる、嫌な思いをさせられている(また、強く執着をしている)相手は特に、自分の中にある怖れの記憶を見せて下さっているのだと言えます。
「何の脈絡も無く、私の人生に不幸がやって来た」訳ではありません。
その原因が心のどの層にあるかは、人によって異なるでしょうが…でも、無根拠に体験することなど一つもありません。


自分との関係を通じ、人生に現れる人達や事象は、

「あなたはこんなに沢山の怖れを抱えているんですよ」
「そのままだと、自分を苦しめる為に生きていることになっちゃいますよ」
「そんなに必死に逃げたり隠したり誤魔化したりしなくてもいいのでは?」
「怖れを認めて手放したらどうでしょう」


ということを教えて下さっているんですよね(勿論、他者への攻撃を正当化している訳ではありません)。



私は昔、これが全く分からずに居りまして、「何なんだろう…どういうことだろう」と非常に不可解に思っていました。
どう頑張っても赦すことが出来ない相手が居たり、どう足掻いても理解不可能な体験が沢山あって、それが自分の心に端を発しているとは到底思えなかったのです。

何故って、自分の心に全然目を向けていなかったからです(笑)。
精々「ま、そんなもんだ」「私はいつもこうだからな~」と誤魔化す、抑え込む、遣り過ごすのが関の山でした。
「解消? 何それ」って感じでしたねー。


だからって、苦痛が減ったり無くなったりすることは無く、ただただ苦しいばかりです。
ちょっとだけ沈静化しているように見える期間が僅かばかりあっても、それは長くは続きません。
一時的な沈静化の期間を私は『平和』だと思い込んでいましたが、とんでもない話でした。
その間も、ずっと心の中が穏やかだった時はありませんでしたから。一時凌ぎが出来て、逃げられた気がしていただけです。

苦痛は私達の本質とは全く相容れない思考である為に、幾ら頑張っても永久に耐え切れるものではありません。
なので、誤魔化しつつも「理解しよう、せめて因果関係が理解出来るようにと願うこと位は…どうにか~」という風に、粘って齧り付いていました。
幼少の頃より、「何で? どうして? これ、何でか理由が全然ちっとも分からない!」っていう体験だらけでしたから。
今も途上なのですが、日常的に自分の心の中を注意深く観察することと、外の世界に見える現象の整合性を取って行くことで、先達の仰っていたことが本当なのだと漸く理解出来て来ました。ちょっとだけですけども。


個人的な話になりますが、私のこの人生での体験の大半は潜在意識内でもかなり深く抑圧している部分から現れているので、「これは何だろう?」という疑問の答えが明るみに出るまで、結構な時間が掛かっています(私が非常に鈍い、ということもありまして…多分こっちが理由 笑)。
出来る限り速く、正しい答えに向かって導いて頂けるよう、自分がその導きに目を向けて気付き続けられるよう、スピリット(宇宙)にお願いしている毎日です。
過去の様々な未完了の体験についても、「あれはこういう理由だったのかー!」という風に回収して行かれるのは、自分が解消を願っているからなんだろうなと思います。

一つ納得するその度に、「やっぱり自分の心、思考の中に理由があるのだ」と頷くばかりです。
自分の不幸は誰かのせいではなかったし、自分以外の何者かのせいではありません。
それをこの先も、深く理解して行くことになるのだろうと思います。
自分の心の中にその原因があるからこそ、手放して楽になって行かれる。有り難いことです。


「なーんか苛々するなー。なんでまだ状況が動かないんだろう」
と周りに現象の変化が起きて欲しいと期待している時は、自分が心の中の何かを見ないようにカモフラージュしているのだな、というのもはっきり感じます。
そういう時程、外に目を向けているのを一時停止して「私は何を隠してるのかな?」と自分の中に立ち返るよう、気を付けております。

「私は何を隠しているんだろう」と疑問に思いはしますが、隠したいことなんて『怖れ(罪悪感)』以外にある訳が無く(笑)。
私は何に関する思考を、罪悪感を隠しているのかな? と、逸れそうになる思考を出来る限り留めて、特定出来るまで停止。
「私は何か、はっきりとした特定のものを隠している。自分の中にある罪悪感から目を逸らしたがっている。それは何だろう」です。
これも昔は出来ませんでした。と言うより、気付きもしませんでした。
自分が怖れ・罪悪感を隠しておきたいから、外側に目を向けて誤魔化しているのだという思考形態を使っていることに、気付かなかったからです。




どの瞬間も、どの体験も、癒し、解放のチャンスです。
自分が目を向けさえすれば。

ここで言う『癒し』とは、一時的な逃避のことではありません。
嫌なことから目を背け、逃げたり誤魔化したりすることではないんですね。
自分が抱えている怖れの思考に気付き、手放すということ。『赦し』『理解』とも言います。
表現は様々ですが、こういった体験を経て、自分(顕在意識)でも知らなかった元の自分に気付き、戻って行くことが出来ます。


心癒される毎日でありますよう、切に願っております。


12月に入って、今年も残す所あと……です(笑)。
一年を振り返る時期ですね。色々と思う所がおありの方も多いことでしょう。
また、クリスマスや年末あれこれのイベントもありますねー。
毎日、心穏やかに過ごせますように。


今日は『体験していることに目を向けてみましょう』というお話です。
私達が日々体験していることというものは、主に二種類に分けることが出来ます。


1:物理的体験

2:心理的体験



この二つをほぼゴチャゴチャにして、見分けがつかない状態で生活しているのが私達です。
外的な環境や人間関係や身体的な問題等、自分の外側に見える出来事は概ね1に該当します。
2は、それらに対して精神的にどういう反応をするかというものですね。
これらのどちらも、私達は体験した後で『とある目的』を以て捻じ曲げちゃったりします。

そのまま体験をストレートに受け取る、解釈することが出来る人は、幸せです。
何かの問題があっても、逃げたり否定したりせず、速やかに軌道修正が出来るからです。
でも、その内容を歪曲させてしまうと、迷宮入り確定です。


例えば、自分が何か悪意のある行動を取ったからこういう結果が出た、という場合。
当然ですがそれを認めて、心から反省する必要があります。
しかし、「だってそれは誰々がああでこうで…だから自分は悪くないんだ」と言い張る場合、「私は攻撃を続けます。絶対にやめません」と言っているのと同じことですから、解決は宇宙の彼方。

また、一見『外側からとんでもないことがやって来て、嫌な思いをした』という場合でも、「それはどうしてだろう」という解明をしないと、納得行くことはありません。
ただ自分は被害者であり、これからも被害者で、ずーっと嫌な思いをし続けることになってしまいますね。

斯様に私達は「嫌な体験・嫌な思いをすること」に慣れてしまっていて、「私とはそういうものなのだ」とどこかで信じています。
信じていなければ、体験する筈が無いのですから。




例えば個人セッションなどにいらっしゃる方が、

「何でもいいから変えて!」
「とにかく今よりちょっとでも良くなればいい」
「ラクにさえなれば何でも良い」

と仰ることがありますが、ターゲットを絞れない以上は不可能です。
追い詰められている時に、そう言いたくなる気持ちは分からないでもないのですが…でも無理です。
私達が体験することの全ては、無制限に広がっている潜在意識から浮かんで来るものですから、全部をポイッと丸投げされても何の結果も出ません。


しかし、
「私はこれこれこういう体験の記憶やパターンを持っているので、それを手放したい」
とか
「私は赫々云々という目的を持っているので、可能なら達成したい」
とか
「自分が何故このような受け取り方を繰り返すのか、知りたい」
…というように、意識を向けるターゲット先が具体的であれば、それが出来る可能性はかなり上がります。
とにかく『これ』と主観的に指定出来ることが非常に重要です。

「嫌だ、嫌だ、とにかく嫌だ、一瞬も見たくもない」
「何でもいいから変えて!」
と言っている時、自分が体験していることを否認している状態です。
『"自分が"体験している』ということさえ、拒絶しているのかも知れません。

「認めたくない!」を分かり易く言うと、がっぷり四つに組み合っている、ということです。
自ら膠着状態を作り出していることになります。「あれが嫌だ」と否認(否定)するには、事実が必要ですからね。
そうやって問題を停滞させるのがこの思考です。


何故、このように「絶対に認めたくない」とか「見たくもない!」と強硬に主張するのかと言えば。
自分の心の中に、後ろめたさ、疾しさ、罪悪感を抱えていて、それを見るのが恐ろしいからです。
見たくない、認めたくないのは怖いから。
自分に対して疾しさを感じないなら、「怖い」などと思う訳がありません。
我々が抱えている怖れの量は物凄く莫大な量なのですが、それが漏れて来ないようにする目的で生活を忙しくしたり、外側に目を向けたり、誰がどうしたとかあれがどうだと言い続けている状態です。

何らかのトラブルが起きた時、恐れが一気に噴き出して来て目の前に迫ります。
隠しているつもりだったのに、無かったことにしていたのに、と慌てます。
平時、何も無いように見える時でも、なんだかそわそわして落ち着かないとか、何かせずにいられないとか、モヤモヤしてスッキリしない…ということがあるでしょう。
これも、心の下の方に押し込んである未処理の恐れが蠢いているという証です。



例えばプロの先生にお願いしたとしても、自分が「絶対に見ない。認めない」とコミットしている場合、結果はそれに従います。
何しろ結果とは、自分の意欲に比例するのですから。
ここで体験した結果を元に「…ということは、私は認める気が無いんだ」と理解するのが正しい解釈であると言えます。
ここで更に「…でも、それって何の為だろう。どうしてだろう」と疑問を持つなら、意識的に問題へフォーカスしていることになりますから、遅かれ早かれ必ず解明されます。

ここでついつい、自分の体験したことの責任を相手に押し付けて、「損した」「大したことない人だった」と文句を言いたくなったり、出した結果を見直さずに「別の人なら」と期待を新たにするかも知れませんが、自分が体験したことをそのまま言語に直せば、イコール自分の思考です。
不満を感じたなら、それが自分の体験した結果です。最初からこれを目指していたということになります。
しかし私達は『これも自分の責任』と言うのが嫌だから、他人のせいにしまくるんです(笑)。



逆に言えば、手段を自分で講じなくても、何かをしようとしなくても、結果に対して意欲さえ持てば必ず変化が訪れます。
「怖れに踊らされる繰り返しをやめたい」
「安心していられる状態を体験したい」
「自分が幸せだと心から思える状態になりたい」
といった意欲があれば、必ず結果が伴います。
私達の心はそれほどまでに強力な力を持っているんですねー。

自分の心に解決や幸せへの意欲があるなら、
「だからこういう体験をしたのか…」「私はこれを怖れて逃げ回っていたのだ」
と、それまでしがみ付いていた考えに直面する機会がやって来ます。
自分で自分の心に制限を掛けて、幸せにならないようにしていたことに気付きます。
どのような形でそれが訪れるかは人によります。タイミングもあります。
ただ、自分でどうにかしようとせずとも、びっくりするようなものが目の前に提示されます。
宇宙(超意識/聖霊)は親切ですからね。必ず見るべきものを見せて下さいます。



「どうしたらいいんだろう」
「どうにかしなきゃ」
と言う時は、心が怖れで一杯になっています。ガタガタと震えています。
この後、自分がどうなるか分からなくて、嫌な目に遭うと信じていて怖くて苦しいから、それを回避する目的で自分で状況をコントロールしたくなります。
コントロールは何の為かと言うと、「私は全てを分かっている」と言う為です。

「分かっていない、知らない」という状態は、我々にとって非常に恐ろしいのです。
怖くてどうにかなってしまいそうだから、この怖れから目を背けたくて「自分で全てをどうにかしよう」と思います。
その一環で、過剰にキレたり、暴れたりということをする人も居るでしょうし、その恐怖心を無理矢理抑え込んで「何も感じません」「別に問題ありません」と言う人も居るでしょうが、どのような対策を取るにせよ、根元には必ず『恐怖』が居座っています。
もうちょっと細かく言うと、「『罰せられるに違いない』という恐怖」…つまり、悪いことが沢山起きるに違いない、って妄想ですね。

この時、「愛されている」「守られている」という思考は完全に消し飛んでいます。
自分は無価値で、何かとんでもない目に遭うような人間なのだ、と信じ切っています。
あるのは、「逃げなければ。身を守らなければ」という怖れによる防御の考えだけです。


自分の心を観察する習慣を付けて行くと、自分の中は常に怖れで溢れ返っているように見えます。
何があっても無くても、いつも怖れがある。
しかもそれに慣れ切っていて、「私は怖がっている」という風にも思わなくなって久しい。
或いは、「私は怖がっている」と認めることさえも怖い。だからその言葉自体を絶対に使わない…等々。

しかしこれはゴールではなく、怖れを認めて手放して行くことで、心が平和になって行きます。
「私の心が今、体験していることは何かな。何を感じているのかな」
「私は何故、この体験をしたのだろう」

と疑問を持ちながら、毎日自分の体験を眺める練習をされるのが宜しいかと思います。

物理的体験でも心理的体験でも、「見よう」とする意識を持ち続けること、
「私がこの体験をしているのは、こう感じるのは、思うのは何故だろう」
と疑問を持ち続けることで、見ないように頑張って来た本当のこと、自分の心を曇らせているものがはっきりと見えて来ますから。



11月に入りました。
巷は明日から連休ですね。行楽のご予定がおありの方は、楽しんで下さいませ。
お勉強やお仕事の方は、それぞれ捗りますように。




物事を体験・目撃した時、人それぞれ何らかの解釈をします。
物凄く大雑把に分けると、自分にとって良いこと・悪いこと・どちらでもないことの三種類です。
これをどのような基準で振り分けている(そう、能動的に振り分けています)かと言うと、自分の中にある『怖れ』に抵触するかどうかです。

『良いこと』は、怖れや自分が隠したいことを隠せるもの。自分を正当化出来て、自分に価値が付くもの。
『悪いこと』は、怖れが剥き出しになってしまうもの。自分が悪人・無価値になってしまうもの。
『どちらでもないこと』は、そのどちらにも加担しないもの。
大体、こういう風に分けています。


日頃のあらゆる体験によって、私達は自分の価値を測っています。
『良いこと』を体験した時、心の中で何が起きているか見直してみると分かり易いでしょう。

よーくよーくじっくり見て行くと、自分を価値の無い、欠損した不完全で罪深い存在だと思っており、そこから生まれる怖れ(裁かれる恐怖)を一時的に覆い隠して「私はそんな人ではない」と言えそうな気がするから、『良い』のだということにしてある。
身も蓋もない話ですが、本当に殆どがこれです。


私達の人生は、欠けている自分を補完する為により良いもの、より良い生活、より良い自分を追い求めることが大半です。
あれが足りないから、これが不足しているからと周囲を見渡して不満に思うのなら、それはそのまま自分に対する不満だと言えます。

○○が足りないのが嫌なのではなく、『あれが足りないという体験をしている価値しかない自分』が嫌なのです。
親に愛されていないのが嫌なのではなく、『親に愛される価値も無いような自分』が嫌なのです。
褒めて欲しいと思う理由は、褒められたら幸せだからではなく、『褒められる価値の無い自分』が嫌で、それを隠したいからです。


でも、体験される時はまるで外側に欠損や問題の元があるかのように見えてしまう為、外側を捻じったり攻撃したりを繰り返し、どうにか変えようと試みるんですね。
実際それによって何をしたいのかと言うと、不完全で罪深い、また無価値な自分を否定したい訳です。


「○○になりたい! ○○をやりたい! ○○が欲しい!」
と言う時、それが元々自分の中にあると確信していることを表しているのか、或いは自分には『元々』それが存在しないから、それを得ることで別の何か――――前よりも少しはマシなもの――――になろうとして、つまり無価値な自分から目を背けたくて言っているのか、そのどちらかでしかありません。

で、驚くことなかれ、大概は後者です。本当に。
だから、何を手に入れても何になったとしても、満足が続かないんです。
抑々、自分が自分そのものに対して無価値を宣告しており、ちょっと何があったとしても直ぐそこに戻ってしまうんです。
で、また何かを得よう(誤魔化そう)と藻掻く…というループに入ります。砂上の楼閣ですね。




奇跡のコースは、難解な言い回しと言える文体が特徴の書籍です。
概要編である『テキスト』と実践編である『ワークブック』に分かれていますが、どちらも必要な人には素晴らしい教えに相当します(スピ初心者の方や、願望実現系ばかりに特化して来た方にはあまりお勧めしません。序盤で意味が分からず投げ出すことが殆どだと思います)。
『ワークブック』は一年間を掛けて自我の思考体系に気付き、手放して行く為に使う独習書です。

大変素晴らしい書籍なのは確かですが、「なんでこんなに面倒な言い回しなんだろう」と思う人は、少なからずいらっしゃることでしょう。私も「うーぬ…」と唸りながら読んでいました。
これが難解な理由は、「自分を見直す為にじっくり時間を掛けなさい」という呼び掛けではなかろうかと思います。
「分かりにくいなあ」と思う時、何度も読み直し、時間を掛け、自分に当て嵌めて見直すからこそ、徐々に理解出来て行く。


何事も同じですが、「そっか、分かった~」とインスタントに分かった振りが出来るようでは、身に付いたとは言えないですよね。
インスタントに分かった気がする時というのは、過去(これまで)の自分に正当性があるような気がする時です。
これは『コース』の教えとは真逆を行く考え方で、自我万歳の考え方です。苦痛を延長します。

「色々な本を読んで分かったような気がしたのに…」というお話もよく伺いますが、何故こういう風になるかと言うと、自分の思考体系に当て嵌めて見直していないからです。
本を見ながら自分の思考に気付いて手放すことが目的なのに、ただ字を目で追って「なるほどー」と言う為に読んでいるとなると、本末転倒になってしまいます。
要するに目的が何か、ということです。使う為に読むのか、読む為に読むのか。



自我の思考体系とは、上記のような怖れの思考体系、欠乏の思考体系です。
この考えに乗っ取られている限り、私達は何千回転生しても怖れの輪から抜け出すことは適いません。
ずっと何処かが苦しいまま、足りない感じがしたままです。

『コース』でなくても、あらゆる有効的なメソッドは最終的に同じ所へ行き着きます。
即ち、これまで自分だと思っていたもの(自我)は自分ではなく、全ては自分の内側に存在し、あるがままで完全であると思い出せることが私達のゴールだということです。


この世界に居る間に、怖れの思考に気付き続け、それが自分の真実ではないと気付き続けること。
自分に対し沢山の嘘を吐いていたことに気付いて、それを手放して行くこと。
その絶え間ない繰り返しによって、何れ必ず正しい理解は訪れるということです。
「愛に目を向けましょう」と言うのは怖れに乗っ取られて生きている以上相当難しいことなので、「愛を見えなくしている障壁たる怖れの思考に気付いて行きましょう」ってことですね。

但し、これに気付くには常時自分の心に目を向けていなくてはならず、しかもその姿勢はシビアさを徹底せねばならず、そのように目を向け続けるにはこれまでの繰り返しや自分自身に対し、いちいち疑問を持たねばなりません。
「そういうもの」とか「私ってそうなのよー」で終わってループする限り、気付くことは絶対にありません。
況してや、「これは認めたくない、見たくない!」という考えにしがみ付いている限りは、喜びを体験することなど当然不可能です。
また、時間は何も解決しません。心を使わない限り、形がどうであっても本当の解決は望めないのです。


自分の考えに目を向け、気付き、手放すというのは、ただ文章にするとそれだけのことですが、大変面倒なことです。
そんなのめんどくさいし、つまらないし、嫌な思いをするし、よく分かんないし、何がいいの? そんなことより、美味しい思いを追いかけた方がよっぽどいいじゃん。大体、今フツーに暮らせてるし、困ってないしー。

と考えるのもご尤もです。ですよねー。って思います。
それに、現代日本には目を向けて気を散らせるもの(他人様がその最たるものです)が山程ありますから、そんなことをせずとも飛ぶように時間は過ぎて行きます。


それもまた、選べます。これまで通りの繰り返しだけで生きて行くか。
それとも、自分が何を怖れて、何を認めたくなくてこの人生を逃げ回っているかを直視するのか。
私の体験から申し上げますと、余程のことでも無い限り、自分の生き方そのもの、思考体系そのものを見直そうとは思わない筈です。

追い詰められてどうしようも無くなった時に、漸く嫌々重い腰を上げるのが人間です。
何故かと言えば、真実に到達するまでの間は長く隠していた闇に向き合い続けなくてはならず、そんなものは誰だって嫌に決まっているからです。
だからこそ、今のような人生を作っている訳ですしね…。



とはいえ、やはりいつでも選択の余地はあります。
繰り返すか、違う見方で自分を見たいと望むのか。
その選択の為に、時間が、人生があるのだと言えるのではないかと思います。



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Sachi

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絶対的な事実という訳ではありません。
また、私の理解や気付きの段階に応じ、記事の内容にも随時変化がありますことを何卒ご理解下さい。
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