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Category : 癒しと解放

◆ Infomation

【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2017年11月5日・12月17日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。11月は11時~15時、12月は11時~19時です。
 ※11月と12月では開催時間、料金が異なります。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

9月折り返しましたねー。
大分涼しくなって参りました。




思考は『もの』です。
これは沢山の先生方が仰っています。



「自分は絶対に悪くないし、間違っていない。悪い、間違っているのは自分以外である。認めない。絶対見ない!」

という考えに自分を押し込めて誤魔化し続けて行くと、その思考が蓄積して分厚い皮膚のようになります。
実際は自分が加害者だったり、間違った考え・間違った行いをしたという事実があった時、そこに罪悪感を持っているにも関わらず、直面することを拒否して、防御に回る。
結果、こういった手段を取る訳ですね。

その状態で長く過ごして行くと、多少外側から突かれるような何かがあっても、何も感じなくなります。
年季が入って行けば行く程、更に誤魔化し続けることになりますから、どんどん『嘘の皮膚』が硬質化して行きます。


きょとん。
目をぱちくり。
「はあ? 何のことですか?」


というリアクションを、私は度々目にして来ました。
もうちょっとつんつんすると、ブチ切れる、というのが割と多いケース(拒絶過敏症)です。


「思考は"もの"である」
という表現は、こういう時に本当だなと思います。
能動的に自分の思考を麻痺させたり、感じなくさせられたり、忘れたことに出来るんですね。


さて、これを長々何十年もやって行くと、自分でも事実と嘘の区別が容易には付かない状態になって行きます。
疾しさを隠す為に言い張って来た嘘が、まるで本当にあったことかのような気がして来たり、どんどん誇張を続けて全く原型を留めない話になっていたり。

こういった状態から、正しい自分に戻るにはどうしたら良いでしょうか。
というと、もう認めるしかない訳です。
嘗ての自分が、これまでの自分が絶対に目を向けなかった所へ、目を向けるしか。

他にはありません。
事実は一つです。



ただ、自分がやらかしたことから逃げ回るだけで人生を浪費する、ということも出来ます。
そのまま逃げ切って死ぬ所まで行けば、勝ったことになる。
自分は頭が良い、こっちが正しかった、認めて償ったり謝罪する必要なんか無かったじゃないか、ということになる。
逃げるからには、そういう理屈で逃げているのでしょう。

でも、長年色々なケースを体験したり目撃したり処理したりという中で、私が実感したことはですね、
「幾ら後から事実を否定しても絶対に無くならないし、事実は変わらないし、事実は一個です」
ということ。


私は生きている間、自分+周り中を欺き続けた人も知っています。
自分は被害者だと言い続け、確かに物理的・状況的に見ても大変で、あまりにもそういった演出が上手いので、今でもみんな「可哀想な人だった。苦労ばかりしていた」と言っていたり。

しかしその人の死後、私がじっくり見直して行った所、可哀想でも無ければ苦労していた訳でもなかったな、ということが分かったんです。
ただ、自分の現実・事実を認められなかった。ひたすら全てを否定していただけでした(その結果、間違った人生を歩みました)。

で、死後それで勝ち逃げしたかと言うと、全然です。
詳しい話は伏せますが、大分宜しくない状態に留まっており、すっきり成仏⇒転生なんて王道ルートには入りませんでした。
そこでも怒り狂っていたし、否定し続けていたので、「死んでも別に変わりませんよ」ということだけは確かです。
序でに言うと、次回も引き摺ります。間違い無く。


死んだら綺麗さっぱりリセットで、ゼロになって、というルールでは転生しません。
今はただの平民だけど、次回は凄い大スターになろうと思えばなれるんでしょ? とか、今回は性格が悪いから、次回は聖女のような清純さを持って生まれようと思えばそうなるんでしょ? いう考えを聴くこともありますが、私の所感から行くとそれは無いですね。有り得ないです。

だってその必要が無いし…。
前者で言えば、元々そういう人かどうか…という話でしかありません。
また、どちらも今の自分を認められず、否定する為に誤魔化そうとして、そういった考えを上乗せしているだけになります。

皆、この世界では正しい役割というものがあって、それに合わせて様々な特徴を持って来ています。
『元々そういう人』というのは、『それにピッタリ填まるパーツを、元々沢山持っている』ということです。
そのありようのまま生きることは、自分にとっても周りにとっても社会にとっても正しいことです。


例えば大スターになる人は、なるべくしてその特徴を持って生まれて来たのです。
後付けで色々くっつけたり改造してなる、ということは無いのですね。
例えば途中まで下積みがあって、その末に…というストーリーがあったとしても、あくまでそれはその人がそうなのであって、じゃあ自分もそうなのだとか、同じようなストーリーの末にそうなれるかと言うと、違います。

努力して、様々な経験を経てそこに辿り着きました、というお話も沢山あります。
じゃあ同じだけ同じことをやったらそうなるかと言うと、元々"それ用"のパーツを持って生まれた人と、全くそれが無い人とでは、結果が変わります。
"元々そういう人"かどうかを見落としてはならないのです。

私達は、今回オギャーと産声を上げた時、まっさらの状態で生まれて来た訳ではありません。
その前もその前も、連綿と続けて来た積み重ねがあって、様々な思考を持った状態で今の人生に入って来ています。
こういった様々な事実を生涯否定して生きると、事実としては何も困っていないし周りも良い人なのだとしても、文句と不満だけで死ぬ(主観では不幸な人生)という羽目に陥ります。



事実を否定している考え、認めたくない、見たくない、自分は悪くないという考えの一つ一つを手放して行くことで、下に隠していたものが見えて来ます。
ただあらゆることについて否定だけをしていたのだ、と気付いて行きます。
そんなことに何の価値も無かったのだ、ということにも。

いつかは必ず、事実を回収する所へ辿り着きます。
この人生でなのかどうかは知りませんが、絶対にそこは通ります。

「私はこんなに怒っている、周りに酷い目に遭わされている」
という思考に支配されている時は、自分を誤魔化しています。
自分に対して無力感、無価値感を感じていながら、目を背けて責任転嫁しているのです。
自分の内側に目を向け直し、それを何度も何度もずっと繰り返して行くことで、認める作業が出来るようになります。


いつでも、自分の内側に目を向ける。向け直す。
そこがスタートです。







えー、大分経ってしまいましたが、去る9月3日は9月度のワークショップでございました。
御参加下さいました皆様、まことにありがとうございました。

10月・11月分の予定も出ておりますので、宜しければサイトをご確認下さいね~。
10月は『過去世と今』です♪





人と向き合う時、例えばこういった『心を見詰める、見直す』のが目的の場でも、大体防御しますよね。
出来るだけ自分を見せないように気を付ける。肝心なことにだけは、触れないようにする。
自分を見せないで、相手の出方を待つ。

…と書くと、まるで格闘技だなーと思います(笑)。
原理は多分一緒なんだと思うんですよね。自分の手の内を明かさず、相手の出方を伺って、防御を固めつつ相手の弱点を突く。
スポーツやエンタメ、自己を見つめる場としてこういったものを使うなら、本当にそのように機能しますが、怖れを軸にするとどういった素材であっても人は同じように使うものだなあとしみじみ。

あ、私は個人的に言うと格闘技はアリ派です。何でもそうですが、その道を極めて行くと、素晴らしく美しいものに昇華されて行きます。人の心を打ちます。
アピールに使うと、残念な結果になるでしょうが…。



自分をオープンにするというのは、自分に疾しい部分が無い、という前提が必要です。
そういう風に自分を開示出来る人というのは、非常に少ないように思います。
自分を閉じた姿勢で居ると、例えばどんなお勉強をしても自分の考え(自分を見せたくない、あの部分にだけは触れたくないという怖れ)基準で物事を測る為、与えられたものを受け取らないでしょう。

何故、疾しいから閉じておかねばならないと思うのかと言えば、「攻撃される」という考えを必ずセットで持っているからですね。
それが『悪い』と自分の中ではっきり判断してあって、けれど明るみに出して改めて反省するのは嫌だから、という理由で、隠し持つことにしてある。
この隠しているもののヤバさが際立つ程、これを隠すことに心血を注ぎます。
色々なやり方で、完全に隠蔽出来るよう頑張る。

…のですが、実際にそれが出来る日は来ないんですよね。残念なことに。
それが分かっているから、何処に行っても誰と会っても、"それ"が顔を出さないように防御を徹底する、というのを第一の目的にして生きることになります。
自分の中が怖れで一杯ですから、与えて頂いたものを決して受け取りません。
それは、私達の本質から行くと非常に不自然なことです。苦しいと思います。



『目の前に居る人や起きる現象は、自分自身(自分の思考の現れ)です』
というフレーズは、スピリチュアルの先生方がよく仰いますし、沢山の本にも書いてあります。
でも、嘗ての自分は全く意味が分かりませんでした。
「この人が私だとしたら、どうして自分に対して嫌なことや痛いことをして来るのだろう」
という疑問が尽きなかった訳です。

私が"潜在意識"という世界を知ったのは、結構遅いタイミングでした。
心の世界の勉強を始めてから、一体どれだけ経った頃のことやら…。
更には上記のフレーズが本当にそうなのだ、というのが断片的にでも理解出来るようになるまで、えらいこと時間が掛かりました。


ずっと「?????」だったのが、「あー…」と、『体験される現象=自分の潜在的な思考』の公式として繋がるまで、かなり掛かったと思います。
今もよくよくよくよく見て、見直して見直して…というのをやらないと、分かりにくいなー分からんなーということが沢山あります。
「こんなん分かるかー!」とハリセンで引っぱたきたくなる時も多々(笑)。
いえ、この台詞はいつも分かってから言うんですけどね…。

毎日毎日、目の前に現れる人、体験する現象の全てを、出来る限りの注意深さでよくよく観察します。
「これは私の思考の何を表しているのだろう。何処から来ているのだろう。どう見たら良いのだろう」と。
過去の体験をふと思い出した時も同様です。「あれって、何だったんだろう…」と見直す。
「まあいいや」「腹は立つけど、見たくない」と言って流さない。隠さない。納得行くまで何度も手元で見直します。
その時理解出来なくても、忘れたことにせず保留だけしておく。要観察。分かるまで捨てない。
見るもの、体験することについて疑問を持たないと、ずっとリピートします。それが嫌なことであっても、です。



「私はこれが何か知っています。このことの原因や対処が分かっています」
という前提は、自分の目を見えなくする考えです。本当に分かっていたら、今頃こうじゃないんです。
本当に理解に至ると、それを体験する必要が無くなります。自分の心から解けて消え去ります。
何かを目撃・体験しても平和な心で居られないのだとしたら、全然理解していないからと言う訳です。

誰かが目の前に居る、何かが起きている。
その中で、ただそれらにいちいち反応だけして、一喜一憂し、腹が立った、苛々する、嬉しい、悲しい、楽しい、だからああしなきゃ、こうしようという対策だけしていると、自分は被害者で振り回されているような気になってしまいますよね。
そればかりの繰り返しで、へとへとに…ということだと、「私は何の為に生きているんだろう」という風に虚しさを覚えるかも知れません。

もし「こんなことの為だけに生まれて来たんだろうか」と疑問に思うなら…「いいえ、違います。私はこんなことの為だけに生まれて来たのではありません」と知る機会です。
だから先ずは立ち止まり、振り返って、疑問に思わないと、です。


先日ご質問頂いたのでここで繰り返しますが、自分の言動や考えや目撃したこと、体験したことの全てに疑問を持つことは非常に重要です。
そうでもない限りはただ惰性で繰り返しに流されるだけ、という一生で終わるからです。
それが駄目だとかいけないとか変えろと言う話ではありませんが、いずれ苦痛を感じて切り上げたくなる時は来ます。

心が平和であること、満ち足りて幸せであることが私達のゴールです。
というか、元々本体がこっちなんです。
それを忘れて、あーでもないこーでもないと後ろめたさを隠す為に逃げ回る、それだけを生きているのが実情です。
本体を思い出す為に、色々疑問を持つと良いですよ、ということですね。


例えば自分を防御して見せないようにしている本当の理由、とか。
あの時の私を振り返ると、とにかく頑張って見せないように取り繕っていた。何故だろう? と疑問に思う。
具体的に、一体何を隠そうとしているのか。何を見られたくないのか。

ただ「自分が悪い人間なので」といった抽象的な話ではなく、それが何を指しているのか、見直す。
もし「攻撃されるから」と言うなら、その理由は何故かを細かく見る。
行動にまで移す以上、具体的な理由がある筈なので。



疑問を解消して行くにつれ、本体の情報を徐々に思い出して行きます。
隠して逃げ回る必要が無くなります。
結果、それが『ラクになる』『幸せになる』ということなのです。
立ち止まり、振り返り、疑問を持ちましょう、別に嫌ならやらなくてもいいけど、幸せになりたいなら絶対にその道を辿ることになるし、その方がラクになりますよ、というお話。




8月突入ですー。







スピリチュアルの先生方が共通で仰っているのが、


「我々一人ひとりに、今生に於いての計画・シナリオがある」


ということです。



魂が何の為に計画を持っているのかと言うと、間違った思考の修正の為です。
我々はそれぞれ間違った思考を物凄く沢山持っており、個人レベルの範疇だけで数えてもそれらは莫大な量になります。
これらに気付き、ひとつずつ修正して行くことで、結果的に『良い』人生へとシフトして行きます。

この修正の為の初期計画を、別の呼び方では『ブループリント(青写真)』とも言います。
厳密には『計画』と言うと語弊があるので、単に『思考』と言って良いでしょう。
度々書いていますが、この思考には、顕在的・潜在的どちらの思考も含まれます。
潜在意識とは世界の全てですから、自分が目にするもの、体験するものは全て自分の思考です。
絶え間ない戦争や病気、身近なトラブルの数々を見れば、如何に間違った思考で溢れ返っているかが分かるという訳です。


そんな私達の潜在的な思考を投影したものが自分の人生です。
初期シナリオには、家族関係やソウルメイトの配置、どういった環境で生まれるか、どんな身体的特徴を持つか、どんな思考パターンを持って生まれるかといった設定があります。
幸せ満点人生計画とではなく、「うっかりパターンはこれだよー」っていうのをわんさか抱えて来ます(笑)。

人生を歩んで行く中で、如何に間違った思考を手放し、正しい思考に目を向け直せるか、ということの為"だけ"に私達は生きていると言っても良いでしょう。
これを「幸せに生きる為に生まれて来たんですよ」と言い換えることも出来ます。全く同じです。



思考の中の間違い(怖れ、不調和)が減って行く程、幸せ寄りの人生になります。
私達の本体は完全で完璧な愛なのですが、間違った思考を採用することによって愛・幸せから離れて行きます。
愛から離れまくった思考の集合体で現在の人生を作っている、ということです。
これらを一つずつ「やっべ! 間違った!」と気付いて手放して行くことで、元の自分、完璧な自分へちょっとずつ戻って行く。

全ての人がいずれ完全な愛に戻る選択をすることになるのですが、時間の無駄を省く為、意識的にそれを行うことも可能です。
というか、勝手に思考が戻ることはまず有り得ないので、"意識的に戻ろうとすることを、意識的に行うことが出来る"というややこしい言い方に(笑)。



人生の様々な要因がかなり厳しい人は、思考が愛から離れている部分が大きいと言えるのではないかと思います。
苦しい、辛い、どうして良いか分からない、追い詰められた時、何かに縋りたくなります。
どうしてこんなに苦しまねばならないのか、怒りや疑問が尽きないでしょう。諦めや悲しみに苛まれるでしょう。

その状態を作っている思考に気付いて手放さない限り、抑え込んでも目を背けても、全く意味はありません(経験者)。
まずは「これが現実なのだ」と認める所からです。
否定したり、目を逸らしたくなるのをぐっと堪え、正面からどーんと直視。
いつも目を逸らして失敗したのだ、ここで逃げてループしたのだということを肝に銘じ、腰を据えましょう。
それから、宇宙に助けを求めましょう。



ところで、この初期計画を捻じ曲げることは不可能です。無理です。出来ません。
不幸を変えられないということではなく、基本路線自体を変えることが出来ないんです。
基本路線と言うのは、『元々私はこういう人でーす』というものです。

何故かと言うと、その必要が自分には無いからです。
それまでの思考が癒された状態、間違いを手放した状態で、何か変化があることはあるでしょう。
でも、ジャックポットがチーン☆ ジャラジャラ…みたいなことではないと思われます。


現代によく見受けられる
「自分は赫々然々な凄い人生を送る筈だ!」
という思考を持っていると、一向にそれっぽいことが起きないことに苛々して、あれこれメソッドを試したり、色んな先生の所に行ってみたりするかも知れませんが、先にその「自分は凄いのだ!」という考えを見直した方が結果速いです。

元の自分とはかけ離れた思考を自分に押し付けていること自体が、元の自分に対する酷い仕打ちとも言えます。
「私、何でこんなこと考えるようになったんだっけ…」
と我に返るのが一番早いです。
ちゃんと元の自分自身に裏打ちされているのかどうか、見直したら良いですね。



本を読んでいたりすると『青写真自体に問題がある場合は…』といった言い回しが見られることがありますが、それはカルマのことですね。
カルマも要するに潜在的な思考パターンのことなので、基本的には気付いて手放すってことです。
そうすると自動的に"在るべき形"へと修正が行われます。
ただ、魂レベル(意識層の非常に深い個所)にブロックやトラウマがあるとすると、その思考を把握・理解するまでにかなりの時間を要する場合があります。
でも、忍耐強く見つめることです。早急に「これのせいだ!」と結論付けない方が良いですね。

浄化、癒しというのは、「自分を含めた様々な物事には元々調和に満ちた在るべき状態というものがあり、そこへ戻ることである」と言うことが出来ます。
この在るべき状態とは、私達(の顕在意識)が知る所ではありません。
「あれがいい」とか「ああじゃなきゃ嫌だ」とか「こうなる筈だ!」と自分でいちいち指定する必要は全くありません。

もし「あれじゃなきゃ嫌だ」と思って急いで形だけ手に入れたとしても、心が不幸だったら意味が無いし、自分にはそれが必要ではないかも知れないのですから。
それではない、別の何かが与えられるかも知れないですよね。
だから「やるべきことを行ったら、あとは宇宙にお任せ」と言うのです。『人事を尽くして天命を待つ』という言葉の通りです。



抑々、見るべきを見たら、気付くべきに気付いたら、理解すべきを理解したら、もう「嫌だ」とか否定したいとか変えたいという抵抗は消えているでしょう。
「そうか…」と深く納得していることでしょう。
この時点で癒されている、ラクになっている、愛に戻っているということです。

もしも自分の心がフツーに平和な状態で安定しているとして、そこから何か変化に見えることが起き、丸く収まったということなら、そっちが元々の在るべき形だということです。
という訳で、その贈り物は有難いお気持ちで受け取られたら良いと思います。
『手放すとやって来る』というのは、そういった理屈だと私は思っています。



私、昔はこの仕組みが全然ワカリマセンでした…。
自分の思考に注意を払っていなかったのが無理解の要因ですな。ふー。
どういうことかと言うと、不足や欠乏や怖れを隠す為の蓋として欲しているのか、喜びから欲しているのかの区別が全くついていなかった、ということです。

幸せと不幸、良いと悪いの区別も付かずに居ました。
喜びから望むことと、しがみ付いて執着することの違いも分かっていませんでした。
在るべき姿に向けて思考を修正することもなく、何重にも上塗りしようとしたって、そりゃどうにもなりませんわ~。って、はよ気付け(笑)。



そんな感じです。
自分そのものを在るべき姿へ戻せるよう、そのスピードが上がりますといいですね。
生きるなら、ラクがいいに決まってますからねー。



7月ラストですね~。
昼間の気温がえらいことに…。
栄養をちゃんと取り、こまめに水分補給をして、お外へ行かれる際もちょこちょこ日陰で休む等、お身体は呉々も大切になさって下さい。




本日は拒絶過敏症のお話です。




誰かに"叱られたから"、"注意されたから"という理由で、「それはやらない」という考えである限り、また似たような別のことをやって、叱られます。
『それ』自体はやらないにせよ、自分のスタンスが変わらなければ同じようなことを延々繰り返します。

叱られなきゃいいんでしょ。
怒られなきゃやっていい。


そういう考えだからです。


「何故、それをしてはいけないのか」
「それなのに何故、どのような考えで自分はそれをしたのか」

という風に見直さないと、根本的に改めることが出来なくなります。


因みにこういったことにも「自分を何者だと思っているか」の設定が反映されています。
例えば自分は何をしてもいい筈だとか、明後日の方角へ自分を見誤っていると、誰かが忠告して下さってもブチ切れます。
「よくもこの私様に向かって!」「屈辱だ!」と逆恨みをします。

褒められたい、良い評価だけをされたい、良い思いだけをしたいと言い続けている人は、拒絶過敏症を持っていることが殆どです。
ですので、他者が自分の意見に完全な同意をしてくれない場合は大概このような反応をします。
あまりにも当たり前にキレている為、「え? 私、怒ってます?」と自覚が無かったり、逆に「あなたのせいで腹が立った!」と相手に責任転嫁することも。


何故こういう反応をするかと言うと、自分の現実を認められないからです。
自分がどう認識していようと、事実としてやっちゃいけないことを平気でやったり言ったりしている為、周りの反応はそれに応じたものになります。

実際は過剰に怒られたりしている訳でもないだろうし、あくまで世間的に普通のことを言って下さっただけであっても、自分を見誤り過ぎているせいで「酷い! 酷い! 傷ついた!」と喚き立てたりする。

で、例えばセラピストの先生の所に行ったりして、自分がどれだけ被害を被っている犠牲者であるか、涙ながらに語ったりします。
「愛されて来なかったんです」というのが定型文かも知れません。



拒絶過敏の人の多くは、最初期の環境が極甘で、常に一番、特別、最優先された生活を送っていた為、それを自分の基準にしています(大人になっても一部ではそうかも知れません)。
その後の環境的変化に全く適応せず、現実を拒絶して来ている為、赤子の頃の環境に周りが変わるべきだと思っています。
自分の要求したことが大概通った生活をしていたせいで、大人になってもそうであることへの期待を捨て切れません。

自分の思い通りの言動を相手が取るべきだ、思い通りに周りが変わるべきだと本気でゴリ押しします。
どちらかと言うと、「そうなるべきだ」よりは「なんでこうならないの! ならないのがおかしい!」という現実への否認ですかねー。
何故そんなことを考えるかと言うと、「だって昔そうだったから!」というのが何処かにあるんですね。


年齢と共に成長して行くと、周りの人達は年齢や立場相応の態度や常識を求めて接して来ます。
それは誰であっても当然のことです。
「この年齢なんだから、流石にこんなことは当たり前に分かっているだろう」
と、周囲はいちいち考える以前にそう接しています。

でも、自分が「赤ちゃん扱いをしろ!」と頑強に要求していると、結果が互いに食い違います。
あちらは「何、この人。常識無いんじゃ…」とビックリするし、自分は「酷い! 私仕様に合わせてくれない!」です。
この場合正しいのは向こうですが、自分にはその発想が全く無いせいで、結果のギャップに驚愕します。
そうして「なんでやってくれないの!」「なんでこう言ってくれないの!」「どうしてそんなこと言うの!」「なんで自分がそんなことしなきゃいけないの!」が爆発し、キレたり泣いたりする。
勿論、自分の正当性を不条理に押し付けている訳ですが、自分は怒りを感じているので相手のせいだと思い込んでいます。


それを「愛されていない!」という言葉に誤変換している人も沢山居ます。
でもその中身は愛でも何でもなくて、「赤ちゃん扱いしてくれない!」です。
残念ながら(?)、大人を赤子扱いする等と言うことは、有り得ないことです。
だって事実赤子じゃないし。周りの方も、そんなことをする必要は全然ありません。
下手をすると「きもっ!」って言われたり、「イタ過ぎる…」って思われかねませんよ~。

例えばその忠告は、愛から言って下さったのかも知れません。
愛まで行かずとも、そこで叱って下さらなかったら、教えて頂かなかったら、もっと先まで自分は恥を掻く羽目になって、陰で笑い者になってしまうかも知れず。
そういった違った角度から物事を見直してみないと、正否の判定って難しいと思います。
また、様々な出来事はそれまで気付かずにいたことに目を向ける機会として利用すべきです。



「愛される」というのを「赤ちゃん扱いしてくれて、何でもやってくれて、極甘の砂糖漬けにしてくれる」と取り違えていませんか。
「愛されたい」のではなく、「現実を認めない!」と言っているだけではないでしょうか。

自分は赤ちゃんじゃないんだ。
実際はこの扱いが正しかったんだ。
赤ちゃんの頃の状態を続けたいと思ったことが間違いだった。
何処かでこの考えを修正しなければならなかった。
だって私は大人になったのだし、周りの人はそう思って接して来るから。それはこの先も変わらないのだ。


そのように気付くまでは、自分の中で否認と回避や防御のループを続けてしまうでしょう。
自分に同意してくれる人を探して、長々と彷徨うでしょう(見つかりませんが)。
その時間が本当に勿体無いと思います。

私達は事実を認めるまでの時間をどれだけ引き延ばすか、或いは今すぐ直視して認めるかということ、つまり『いつ事実を認めるか』ということしか選べません。
決して『どれが事実か』を選べる訳ではないんですよね。


事実を直視するまでの時間を短縮し、節約し、その分もっと楽に幸せに生きる方へと活用されることをお勧めしたいと思っています。



東京、梅雨明けましたー。
先日の暴嵐が梅雨の最後だったようです…梅雨? 凄い雹とか降ってましたが、あれって梅雨の現象?

そろそろ夏休みに入る学生さん達も多いことでしょう。
各所のお母様方に於かれましては、平時よりも長期のお休みの方がご多忙というお声が多く聞かれます。
どうぞお元気にお過ごし下さいませ。






なかなか解決しない問題を抱えていて、或いは思い通りに行かないことに苛立ちを覚えていて、色々と彷徨って行くと、スピリチュアルの本や情報を知ることがあります。
その中には、「~~の原因はインナーチャイルドが傷付いているから」「過去世で悲惨な目に遭ったから」「特別な試練を与えられているから」というような情報がちょくちょくあります。

大まかに整理すると、『私は犠牲者です。悪いのは別の何かです』ということが凄く多いなあと思います(特別な試練云々については、何と言うかコメントのしようが…特別性万歳ですよね)。
これまで、「ああならないのはおかしい」「これが解決しない」と長々言って来たものがあるなら、この『自分は被害者100%』という考え方を据えていないか見直されると宜しいでしょう。




問題を解決したいなら、その本当の原因に行き着かない限り、絶対に解決しません。


例えば、本当に幼少期に辛い目に遭って、それが理由で…と言う場合、その時の記憶にスポットを当てることが問題解消に繋がる、というのは確かに事例として沢山沢山あります。
それが『過去世』というイメージである場合も、無いとは言えません(それ程多くはないと思いますが)。
本人の心・思考が「これは実在したことです。これが原因です」とはっきり認識しているなら、それを手放す必要がある訳です。

あくまでも本人の心が嘘偽りなくそう認識していることが重要なのであって、
「運命の人と結婚出来ないのは過去世で悲恋ばかりだったからだ! そうに違いない! の、筈だ」
「異性が苦手なのはあっちに酷いことを言われたから…の、筈だ! 多分そうだ!」
というようなこじ付け(要するに嘘)だとすると、如何にイメージが湧いて来たとしても、幾らリアルに泣いたとしても、結果どうにもならないんです。


事実に対し、後付けで自己都合に合わせて捻じ曲げてしまうと、幾らその逸話をセラピーやイメージワークで弄ったとしても、ビクともしません。
何故ビクともしないのかと言えば、本人が「これが原因だということにしておかないと、自分が困る」からです。
解決したらマズイんです。解決するにあたり、事実関係が明るみに出たらヤバいんです。
という理由によって、本人は「これが原因なのだ!」ということにしておきたいものを掲げます。言い続けます。

過去世のイメージを見て散々泣いて、でも現実に帰れば何の影響も無いことを見て、「これはブロックが巨大過ぎるのだ」と、"それ"に価値を付与し続けたりもします。
これまで使って来た「自分の不幸はこれが原因の筈だ」と言い続けて来たものがあるのなら、それが実在したものか、何度も仕切り直して見直されたら良いと思います。


どうしてそれが原因だ、って思ってるのかな?
それ以外の理由だと何か困るのかな?
その原因というものは、今の人生と何処がリンクしているのかなー?

と言うように、検証を何度もされることをお勧めします。
何故かと言うと、時間が勿体ないからです。



近年割と多いのが、「自分が悪かった・酷かったことを認めたくないあまりに、その時の逸話を完全に改竄・捏造してしまう。記憶を都合よく変えてしまい、自分を被害者に仕立て直してしまう」というものです。
物凄く可愛がられ過ぎ、甘やかされ放題で、特別だ一番だ凄い凄いと煽てられまくり、叱られなかった。何でもOKだった。ダメと言われたことが無い。
そのように育つと、とんでもない暴君になります。所謂問題児、クソガキです(小皇帝という言い方もあるそうな)。

そのルールが通用する家庭内だけで過ごしている間は良いんです。そこは自分サイコーの国なんで、王様だったり女王様だったり王子様だったりお姫様だったりする。
しかしある段階で社会に接触をすると、その自分にピシッと罅が入り、ガラガラに崩れ去る出来事が起こります。
自分は世界で一番凄いんだ、最高なんだ、ちょー可愛いんだ、何でも思い通りなのだー! と、全能感で一杯だったものが、一瞬にして崩壊します。
何故崩壊するかと言えば、元々それは存在して良いものではなかったからです。架空のものだったからです。


人生という視点から見ると、そのショックな出来事自体は『良い』ことです。
そんな人格のままでは、社会と上手くお付き合い出来ないからですね。
自分で問題を起こしておきながら、それを人のせいだと言い続けるような人が、また何でも思い通りになるべきだと言って人に当たり散らすような人が、他人様と調和して行かれる筈が無い。

だから、それまでの幼児的全能感・万能感が、ただの妄想だったのだ、これまでの自分はとんでもない悪人だったのだと知ることは、『良い』出来事に分類されます。
ここで、「自分が間違っていたのだ」と打ちのめされる必要があるからです。



これを、事実とは逆に「トラウマだ!」だの「傷付いた!」だのという捉え方に誤変換してしまうと、それまでの傲慢な人格を持ったまま身体だけ成長します。
但し、その嫌な出来事(全能感がブレるようなシンボル)に関連したものには、寄り付かないよう行動を始めます。
認めないで居る為には、見なければ良い。触れなければ良い。無かったことにしちゃえ。
それがダメなら自分は被害者だって言えばいいや。ワタシ、悪くないもん。

全く以て小さい子供の考え方ですが、思考によって私達は人生を生きるので、見た目は大人でも、おじさんでもおばさんでも、ここに触れそうな出来事や何かを察知すると、幼児性全開で暴れ出したりします。
言っていること、やっていることを見れば、どのあたりで人格を止めたかが分かります。

このような否認のプロセスを経て、拒絶過敏症が形成されるんだろうなーと私は思っています。
架空の自己像に響きそうな何かには、徹底して近寄らない。触れない。見ない。
ちょっとでも架空のプライドに響くことがあると、泣き出したりキレたりする。
これは傷付いているからとか、繊細だからと言うよりも、「事実を認めないから」です。



人生をスムーズに流れるものにしたいなら、『事実を認める』ことが最も重要になります。
本当に自分が幼少期に酷い目に遭っていて、それを完了出来ていなかったのなら、事実を見直して手放す必要があります。
本当に過去世のとある場面に潜在意識の視点が固定されているなら、それを見直し完了させて手放す必要があります。

それと同様に、本当に自分が悪いことをしたから怒られたのだ、あまりにも自分が酷い有様だったから拒絶されたのだ、そんなの当たり前だという出来事があったのなら、事実をそのまま認めて一度深く後悔する必要があります。
悔やむ必要があるのは、「二度とあんな生き方はしない、私は間違っていた」という理解を得る為です。
自分は特別でも一番でも偉くも何ともなかった、それどころか酷過ぎた、ごめんなさい、今後はマトモになろう。そう思い直す為です。


原因がどれに該当するかは人によって異なりますが、これまで定型文として「被害者だ」と言い張る内容があるなら、一度取り下げて見直された方が良いと思います。
何にせよ、本当の原因に行き当たるまでは、絶対に解消しません。それは間違いなくそうです。

これまで解決しなかった、解消しなかったのは、理由に持ち出していたものが違ったからでは?
それじゃないからかも知れないし、主客転倒しているのかも知れない。逆かも知れない。
そのように自分の考えを疑って、何度も何度も真偽を見直すことです。


「もしかして、原因ってこれじゃないかも…」と思った時、「嫌だ!」という反応を自分がしたなら、尻尾を捕まえて引き摺り出した方が良いよーという合図ですね。
自分を正直に観察すれば分かることです。
幸せが良いなーと思うなら、是非意欲的に自分の思考を見直してみて下さい。




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Sachi

blog owner:Sachi
潜在意識を活用した、ちょびっとスピリチュアルな総合セラピー、癒しのワークショップ・タロットカードセッションをしているSachiです。
穏やかに楽しく成長出来るよう、入手した情報や、日々の気づき&
発見などをシェアして気ままに更新。
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※記事の内容、情報については一個人の捉え方、考え方に纏わるものが大半です。
絶対的な事実という訳ではありません。
また、私の理解や気付きの段階に応じ、記事の内容にも随時変化がありますことを何卒ご理解下さい。
過去の記事をご覧になってセッションやワークショップにご興味を持たれた方は、最新記事近辺を幾つかご確認下さいませ。


旧blogタイトルは『気づきのステップ』。


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