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Category : 癒しと解放

◆ Infomation

【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2017年8月13日・9月3日・10月8日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。全て11時~15時です。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

8月突入ですー。







スピリチュアルの先生方が共通で仰っているのが、


「我々一人ひとりに、今生に於いての計画・シナリオがある」


ということです。



魂が何の為に計画を持っているのかと言うと、間違った思考の修正の為です。
我々はそれぞれ間違った思考を物凄く沢山持っており、個人レベルの範疇だけで数えてもそれらは莫大な量になります。
これらに気付き、ひとつずつ修正して行くことで、結果的に『良い』人生へとシフトして行きます。

この修正の為の初期計画を、別の呼び方では『ブループリント(青写真)』とも言います。
厳密には『計画』と言うと語弊があるので、単に『思考』と言って良いでしょう。
度々書いていますが、この思考には、顕在的・潜在的どちらの思考も含まれます。
潜在意識とは世界の全てですから、自分が目にするもの、体験するものは全て自分の思考です。
絶え間ない戦争や病気、身近なトラブルの数々を見れば、如何に間違った思考で溢れ返っているかが分かるという訳です。


そんな私達の潜在的な思考を投影したものが自分の人生です。
初期シナリオには、家族関係やソウルメイトの配置、どういった環境で生まれるか、どんな身体的特徴を持つか、どんな思考パターンを持って生まれるかといった設定があります。
幸せ満点人生計画とではなく、「うっかりパターンはこれだよー」っていうのをわんさか抱えて来ます(笑)。

人生を歩んで行く中で、如何に間違った思考を手放し、正しい思考に目を向け直せるか、ということの為"だけ"に私達は生きていると言っても良いでしょう。
これを「幸せに生きる為に生まれて来たんですよ」と言い換えることも出来ます。全く同じです。



思考の中の間違い(怖れ、不調和)が減って行く程、幸せ寄りの人生になります。
私達の本体は完全で完璧な愛なのですが、間違った思考を採用することによって愛・幸せから離れて行きます。
愛から離れまくった思考の集合体で現在の人生を作っている、ということです。
これらを一つずつ「やっべ! 間違った!」と気付いて手放して行くことで、元の自分、完璧な自分へちょっとずつ戻って行く。

全ての人がいずれ完全な愛に戻る選択をすることになるのですが、時間の無駄を省く為、意識的にそれを行うことも可能です。
というか、勝手に思考が戻ることはまず有り得ないので、"意識的に戻ろうとすることを、意識的に行うことが出来る"というややこしい言い方に(笑)。



人生の様々な要因がかなり厳しい人は、思考が愛から離れている部分が大きいと言えるのではないかと思います。
苦しい、辛い、どうして良いか分からない、追い詰められた時、何かに縋りたくなります。
どうしてこんなに苦しまねばならないのか、怒りや疑問が尽きないでしょう。諦めや悲しみに苛まれるでしょう。

その状態を作っている思考に気付いて手放さない限り、抑え込んでも目を背けても、全く意味はありません(経験者)。
まずは「これが現実なのだ」と認める所からです。
否定したり、目を逸らしたくなるのをぐっと堪え、正面からどーんと直視。
いつも目を逸らして失敗したのだ、ここで逃げてループしたのだということを肝に銘じ、腰を据えましょう。
それから、宇宙に助けを求めましょう。



ところで、この初期計画を捻じ曲げることは不可能です。無理です。出来ません。
不幸を変えられないということではなく、基本路線自体を変えることが出来ないんです。
基本路線と言うのは、『元々私はこういう人でーす』というものです。

何故かと言うと、その必要が自分には無いからです。
それまでの思考が癒された状態、間違いを手放した状態で、何か変化があることはあるでしょう。
でも、ジャックポットがチーン☆ ジャラジャラ…みたいなことではないと思われます。


現代によく見受けられる
「自分は赫々然々な凄い人生を送る筈だ!」
という思考を持っていると、一向にそれっぽいことが起きないことに苛々して、あれこれメソッドを試したり、色んな先生の所に行ってみたりするかも知れませんが、先にその「自分は凄いのだ!」という考えを見直した方が結果速いです。

元の自分とはかけ離れた思考を自分に押し付けていること自体が、元の自分に対する酷い仕打ちとも言えます。
「私、何でこんなこと考えるようになったんだっけ…」
と我に返るのが一番早いです。
ちゃんと元の自分自身に裏打ちされているのかどうか、見直したら良いですね。



本を読んでいたりすると『青写真自体に問題がある場合は…』といった言い回しが見られることがありますが、それはカルマのことですね。
カルマも要するに潜在的な思考パターンのことなので、基本的には気付いて手放すってことです。
そうすると自動的に"在るべき形"へと修正が行われます。
ただ、魂レベル(意識層の非常に深い個所)にブロックやトラウマがあるとすると、その思考を把握・理解するまでにかなりの時間を要する場合があります。
でも、忍耐強く見つめることです。早急に「これのせいだ!」と結論付けない方が良いですね。

浄化、癒しというのは、「自分を含めた様々な物事には元々調和に満ちた在るべき状態というものがあり、そこへ戻ることである」と言うことが出来ます。
この在るべき状態とは、私達(の顕在意識)が知る所ではありません。
「あれがいい」とか「ああじゃなきゃ嫌だ」とか「こうなる筈だ!」と自分でいちいち指定する必要は全くありません。

もし「あれじゃなきゃ嫌だ」と思って急いで形だけ手に入れたとしても、心が不幸だったら意味が無いし、自分にはそれが必要ではないかも知れないのですから。
それではない、別の何かが与えられるかも知れないですよね。
だから「やるべきことを行ったら、あとは宇宙にお任せ」と言うのです。『人事を尽くして天命を待つ』という言葉の通りです。



抑々、見るべきを見たら、気付くべきに気付いたら、理解すべきを理解したら、もう「嫌だ」とか否定したいとか変えたいという抵抗は消えているでしょう。
「そうか…」と深く納得していることでしょう。
この時点で癒されている、ラクになっている、愛に戻っているということです。

もしも自分の心がフツーに平和な状態で安定しているとして、そこから何か変化に見えることが起き、丸く収まったということなら、そっちが元々の在るべき形だということです。
という訳で、その贈り物は有難いお気持ちで受け取られたら良いと思います。
『手放すとやって来る』というのは、そういった理屈だと私は思っています。



私、昔はこの仕組みが全然ワカリマセンでした…。
自分の思考に注意を払っていなかったのが無理解の要因ですな。ふー。
どういうことかと言うと、不足や欠乏や怖れを隠す為の蓋として欲しているのか、喜びから欲しているのかの区別が全くついていなかった、ということです。

幸せと不幸、良いと悪いの区別も付かずに居ました。
喜びから望むことと、しがみ付いて執着することの違いも分かっていませんでした。
在るべき姿に向けて思考を修正することもなく、何重にも上塗りしようとしたって、そりゃどうにもなりませんわ~。って、はよ気付け(笑)。



そんな感じです。
自分そのものを在るべき姿へ戻せるよう、そのスピードが上がりますといいですね。
生きるなら、ラクがいいに決まってますからねー。



7月ラストですね~。
昼間の気温がえらいことに…。
栄養をちゃんと取り、こまめに水分補給をして、お外へ行かれる際もちょこちょこ日陰で休む等、お身体は呉々も大切になさって下さい。




本日は拒絶過敏症のお話です。




誰かに"叱られたから"、"注意されたから"という理由で、「それはやらない」という考えである限り、また似たような別のことをやって、叱られます。
『それ』自体はやらないにせよ、自分のスタンスが変わらなければ同じようなことを延々繰り返します。

叱られなきゃいいんでしょ。
怒られなきゃやっていい。


そういう考えだからです。


「何故、それをしてはいけないのか」
「それなのに何故、どのような考えで自分はそれをしたのか」

という風に見直さないと、根本的に改めることが出来なくなります。


因みにこういったことにも「自分を何者だと思っているか」の設定が反映されています。
例えば自分は何をしてもいい筈だとか、明後日の方角へ自分を見誤っていると、誰かが忠告して下さってもブチ切れます。
「よくもこの私様に向かって!」「屈辱だ!」と逆恨みをします。

褒められたい、良い評価だけをされたい、良い思いだけをしたいと言い続けている人は、拒絶過敏症を持っていることが殆どです。
ですので、他者が自分の意見に完全な同意をしてくれない場合は大概このような反応をします。
あまりにも当たり前にキレている為、「え? 私、怒ってます?」と自覚が無かったり、逆に「あなたのせいで腹が立った!」と相手に責任転嫁することも。


何故こういう反応をするかと言うと、自分の現実を認められないからです。
自分がどう認識していようと、事実としてやっちゃいけないことを平気でやったり言ったりしている為、周りの反応はそれに応じたものになります。

実際は過剰に怒られたりしている訳でもないだろうし、あくまで世間的に普通のことを言って下さっただけであっても、自分を見誤り過ぎているせいで「酷い! 酷い! 傷ついた!」と喚き立てたりする。

で、例えばセラピストの先生の所に行ったりして、自分がどれだけ被害を被っている犠牲者であるか、涙ながらに語ったりします。
「愛されて来なかったんです」というのが定型文かも知れません。



拒絶過敏の人の多くは、最初期の環境が極甘で、常に一番、特別、最優先された生活を送っていた為、それを自分の基準にしています(大人になっても一部ではそうかも知れません)。
その後の環境的変化に全く適応せず、現実を拒絶して来ている為、赤子の頃の環境に周りが変わるべきだと思っています。
自分の要求したことが大概通った生活をしていたせいで、大人になってもそうであることへの期待を捨て切れません。

自分の思い通りの言動を相手が取るべきだ、思い通りに周りが変わるべきだと本気でゴリ押しします。
どちらかと言うと、「そうなるべきだ」よりは「なんでこうならないの! ならないのがおかしい!」という現実への否認ですかねー。
何故そんなことを考えるかと言うと、「だって昔そうだったから!」というのが何処かにあるんですね。


年齢と共に成長して行くと、周りの人達は年齢や立場相応の態度や常識を求めて接して来ます。
それは誰であっても当然のことです。
「この年齢なんだから、流石にこんなことは当たり前に分かっているだろう」
と、周囲はいちいち考える以前にそう接しています。

でも、自分が「赤ちゃん扱いをしろ!」と頑強に要求していると、結果が互いに食い違います。
あちらは「何、この人。常識無いんじゃ…」とビックリするし、自分は「酷い! 私仕様に合わせてくれない!」です。
この場合正しいのは向こうですが、自分にはその発想が全く無いせいで、結果のギャップに驚愕します。
そうして「なんでやってくれないの!」「なんでこう言ってくれないの!」「どうしてそんなこと言うの!」「なんで自分がそんなことしなきゃいけないの!」が爆発し、キレたり泣いたりする。
勿論、自分の正当性を不条理に押し付けている訳ですが、自分は怒りを感じているので相手のせいだと思い込んでいます。


それを「愛されていない!」という言葉に誤変換している人も沢山居ます。
でもその中身は愛でも何でもなくて、「赤ちゃん扱いしてくれない!」です。
残念ながら(?)、大人を赤子扱いする等と言うことは、有り得ないことです。
だって事実赤子じゃないし。周りの方も、そんなことをする必要は全然ありません。
下手をすると「きもっ!」って言われたり、「イタ過ぎる…」って思われかねませんよ~。

例えばその忠告は、愛から言って下さったのかも知れません。
愛まで行かずとも、そこで叱って下さらなかったら、教えて頂かなかったら、もっと先まで自分は恥を掻く羽目になって、陰で笑い者になってしまうかも知れず。
そういった違った角度から物事を見直してみないと、正否の判定って難しいと思います。
また、様々な出来事はそれまで気付かずにいたことに目を向ける機会として利用すべきです。



「愛される」というのを「赤ちゃん扱いしてくれて、何でもやってくれて、極甘の砂糖漬けにしてくれる」と取り違えていませんか。
「愛されたい」のではなく、「現実を認めない!」と言っているだけではないでしょうか。

自分は赤ちゃんじゃないんだ。
実際はこの扱いが正しかったんだ。
赤ちゃんの頃の状態を続けたいと思ったことが間違いだった。
何処かでこの考えを修正しなければならなかった。
だって私は大人になったのだし、周りの人はそう思って接して来るから。それはこの先も変わらないのだ。


そのように気付くまでは、自分の中で否認と回避や防御のループを続けてしまうでしょう。
自分に同意してくれる人を探して、長々と彷徨うでしょう(見つかりませんが)。
その時間が本当に勿体無いと思います。

私達は事実を認めるまでの時間をどれだけ引き延ばすか、或いは今すぐ直視して認めるかということ、つまり『いつ事実を認めるか』ということしか選べません。
決して『どれが事実か』を選べる訳ではないんですよね。


事実を直視するまでの時間を短縮し、節約し、その分もっと楽に幸せに生きる方へと活用されることをお勧めしたいと思っています。



東京、梅雨明けましたー。
先日の暴嵐が梅雨の最後だったようです…梅雨? 凄い雹とか降ってましたが、あれって梅雨の現象?

そろそろ夏休みに入る学生さん達も多いことでしょう。
各所のお母様方に於かれましては、平時よりも長期のお休みの方がご多忙というお声が多く聞かれます。
どうぞお元気にお過ごし下さいませ。






なかなか解決しない問題を抱えていて、或いは思い通りに行かないことに苛立ちを覚えていて、色々と彷徨って行くと、スピリチュアルの本や情報を知ることがあります。
その中には、「~~の原因はインナーチャイルドが傷付いているから」「過去世で悲惨な目に遭ったから」「特別な試練を与えられているから」というような情報がちょくちょくあります。

大まかに整理すると、『私は犠牲者です。悪いのは別の何かです』ということが凄く多いなあと思います(特別な試練云々については、何と言うかコメントのしようが…特別性万歳ですよね)。
これまで、「ああならないのはおかしい」「これが解決しない」と長々言って来たものがあるなら、この『自分は被害者100%』という考え方を据えていないか見直されると宜しいでしょう。




問題を解決したいなら、その本当の原因に行き着かない限り、絶対に解決しません。


例えば、本当に幼少期に辛い目に遭って、それが理由で…と言う場合、その時の記憶にスポットを当てることが問題解消に繋がる、というのは確かに事例として沢山沢山あります。
それが『過去世』というイメージである場合も、無いとは言えません(それ程多くはないと思いますが)。
本人の心・思考が「これは実在したことです。これが原因です」とはっきり認識しているなら、それを手放す必要がある訳です。

あくまでも本人の心が嘘偽りなくそう認識していることが重要なのであって、
「運命の人と結婚出来ないのは過去世で悲恋ばかりだったからだ! そうに違いない! の、筈だ」
「異性が苦手なのはあっちに酷いことを言われたから…の、筈だ! 多分そうだ!」
というようなこじ付け(要するに嘘)だとすると、如何にイメージが湧いて来たとしても、幾らリアルに泣いたとしても、結果どうにもならないんです。


事実に対し、後付けで自己都合に合わせて捻じ曲げてしまうと、幾らその逸話をセラピーやイメージワークで弄ったとしても、ビクともしません。
何故ビクともしないのかと言えば、本人が「これが原因だということにしておかないと、自分が困る」からです。
解決したらマズイんです。解決するにあたり、事実関係が明るみに出たらヤバいんです。
という理由によって、本人は「これが原因なのだ!」ということにしておきたいものを掲げます。言い続けます。

過去世のイメージを見て散々泣いて、でも現実に帰れば何の影響も無いことを見て、「これはブロックが巨大過ぎるのだ」と、"それ"に価値を付与し続けたりもします。
これまで使って来た「自分の不幸はこれが原因の筈だ」と言い続けて来たものがあるのなら、それが実在したものか、何度も仕切り直して見直されたら良いと思います。


どうしてそれが原因だ、って思ってるのかな?
それ以外の理由だと何か困るのかな?
その原因というものは、今の人生と何処がリンクしているのかなー?

と言うように、検証を何度もされることをお勧めします。
何故かと言うと、時間が勿体ないからです。



近年割と多いのが、「自分が悪かった・酷かったことを認めたくないあまりに、その時の逸話を完全に改竄・捏造してしまう。記憶を都合よく変えてしまい、自分を被害者に仕立て直してしまう」というものです。
物凄く可愛がられ過ぎ、甘やかされ放題で、特別だ一番だ凄い凄いと煽てられまくり、叱られなかった。何でもOKだった。ダメと言われたことが無い。
そのように育つと、とんでもない暴君になります。所謂問題児、クソガキです(小皇帝という言い方もあるそうな)。

そのルールが通用する家庭内だけで過ごしている間は良いんです。そこは自分サイコーの国なんで、王様だったり女王様だったり王子様だったりお姫様だったりする。
しかしある段階で社会に接触をすると、その自分にピシッと罅が入り、ガラガラに崩れ去る出来事が起こります。
自分は世界で一番凄いんだ、最高なんだ、ちょー可愛いんだ、何でも思い通りなのだー! と、全能感で一杯だったものが、一瞬にして崩壊します。
何故崩壊するかと言えば、元々それは存在して良いものではなかったからです。架空のものだったからです。


人生という視点から見ると、そのショックな出来事自体は『良い』ことです。
そんな人格のままでは、社会と上手くお付き合い出来ないからですね。
自分で問題を起こしておきながら、それを人のせいだと言い続けるような人が、また何でも思い通りになるべきだと言って人に当たり散らすような人が、他人様と調和して行かれる筈が無い。

だから、それまでの幼児的全能感・万能感が、ただの妄想だったのだ、これまでの自分はとんでもない悪人だったのだと知ることは、『良い』出来事に分類されます。
ここで、「自分が間違っていたのだ」と打ちのめされる必要があるからです。



これを、事実とは逆に「トラウマだ!」だの「傷付いた!」だのという捉え方に誤変換してしまうと、それまでの傲慢な人格を持ったまま身体だけ成長します。
但し、その嫌な出来事(全能感がブレるようなシンボル)に関連したものには、寄り付かないよう行動を始めます。
認めないで居る為には、見なければ良い。触れなければ良い。無かったことにしちゃえ。
それがダメなら自分は被害者だって言えばいいや。ワタシ、悪くないもん。

全く以て小さい子供の考え方ですが、思考によって私達は人生を生きるので、見た目は大人でも、おじさんでもおばさんでも、ここに触れそうな出来事や何かを察知すると、幼児性全開で暴れ出したりします。
言っていること、やっていることを見れば、どのあたりで人格を止めたかが分かります。

このような否認のプロセスを経て、拒絶過敏症が形成されるんだろうなーと私は思っています。
架空の自己像に響きそうな何かには、徹底して近寄らない。触れない。見ない。
ちょっとでも架空のプライドに響くことがあると、泣き出したりキレたりする。
これは傷付いているからとか、繊細だからと言うよりも、「事実を認めないから」です。



人生をスムーズに流れるものにしたいなら、『事実を認める』ことが最も重要になります。
本当に自分が幼少期に酷い目に遭っていて、それを完了出来ていなかったのなら、事実を見直して手放す必要があります。
本当に過去世のとある場面に潜在意識の視点が固定されているなら、それを見直し完了させて手放す必要があります。

それと同様に、本当に自分が悪いことをしたから怒られたのだ、あまりにも自分が酷い有様だったから拒絶されたのだ、そんなの当たり前だという出来事があったのなら、事実をそのまま認めて一度深く後悔する必要があります。
悔やむ必要があるのは、「二度とあんな生き方はしない、私は間違っていた」という理解を得る為です。
自分は特別でも一番でも偉くも何ともなかった、それどころか酷過ぎた、ごめんなさい、今後はマトモになろう。そう思い直す為です。


原因がどれに該当するかは人によって異なりますが、これまで定型文として「被害者だ」と言い張る内容があるなら、一度取り下げて見直された方が良いと思います。
何にせよ、本当の原因に行き当たるまでは、絶対に解消しません。それは間違いなくそうです。

これまで解決しなかった、解消しなかったのは、理由に持ち出していたものが違ったからでは?
それじゃないからかも知れないし、主客転倒しているのかも知れない。逆かも知れない。
そのように自分の考えを疑って、何度も何度も真偽を見直すことです。


「もしかして、原因ってこれじゃないかも…」と思った時、「嫌だ!」という反応を自分がしたなら、尻尾を捕まえて引き摺り出した方が良いよーという合図ですね。
自分を正直に観察すれば分かることです。
幸せが良いなーと思うなら、是非意欲的に自分の思考を見直してみて下さい。




すっかり6月ですね~。
日本列島あちこちで梅雨入りでございます。
昼間の暑さは既に夏。ああ夏…(遠い目)。




元々の自分が持って生まれた特性、というものがあります。
例えば、大雑把で小さなことは気にしないとか、地道にコツコツやって行くタイプとか、そういったものですね。
また行動派だったり、熟慮する思考タイプだったり、肉体的な強さに恵まれていたり…というのもあります。

こういったものは、自分の人生の様々な側面、適職といったことに活かすことが出来ます。
自分そのまんまで生きていると、最も合う環境・仕事に行き着くということです。
また、最も合う人間関係にも再現されます。


私は色々な方を見ていて、
「なんでその特徴を一切持っていないのに、"自分はこれになる筈だ! こういう人だ!"って言い張ってるんだろう」
と不思議に思っており、その疑問が中々解けませんでした。

ご相談頂くと、私はその方の魂の予定やその方の諸々の特徴を見ます。
見るのですが、それらの特徴や予定と、現在のその方の人生が真逆で「???」ということがとても多いんです。


お仕事をやって行くのは向いておらず、良き所で普通に結婚して普通に子供を産んで、幸せな家庭を持つ為に生まれて来たんだろうなーという人が居たとして、なんでか『私はバリキャリです! 凄く出来るんです!』って顔で必死に生きていたりする。
本当は全然興味や適性が無いのに、『私は芸術家として大成する筈だ!』と言い続けていたりする。
フツーに周りの人達とほのぼの暮らすことでしか幸せを感じない人が、『私は周りとは違うのよ! 特別なのよ!!』って、態々マウンティング三昧で他人様を遠ざけていたり。
指示を受けて言われた通りにする方が安心するタイプなのに、『私は指導者として生まれて来ました!』って言ったり。
沢山の人の中に居ても、特に他人のことなんか気にならない~というタイプなのに、『他人が自分をどう思っているか、気になって怖いんです』とプルプルしていたりするんですよ。

よりによって、なんです。
逆。正反対。
別の何か、ということではなくて、逆。
一番向いていない生き方を選び、一番才能が無いものになろうと必死に足掻き続ける。
私からは、元の自分とは正反対のものを目指す指向性を明確に持っているように見えます。
自分で態々そうしておきながら、「辛い、苦しい、不満だ、問題だ」と言い続けていて…まるで、元の自分が何であるか、はっきり分かっているかのようです。




そう、元々の自分が何者か、皆さんしっかりとご存知なんです。
知っていて、そこから一番遠い所へ逃げようと頑張っている(無理ですが)。
この世界で最も自分から遠いものになろうと、必死に追い続けている(なれませんが)。

色々な方法で自分の特徴を知って行っても、全然そっちに意識が向かない。
「私は専業主婦が一番合ってるみたいです」と言うようになっても、抑々結婚どころか異性に目を向けない。
一番向いている職業、生き方、在り方、人に対し、意図的に意識から除外しているように見受けられます。
また、「それだけは絶対に嫌だ!」と強硬に主張したりもします。



それは何故なのだろうと思っていたのですが、皆さん「このままの自分では駄目なのだ」と思っているからなんだなと。
素の自分、生まれつき持つ特徴のまま生きる自分。
取り立ててこれといった何かがある訳でもない、ただの自分。
時に間違いを犯し、時に周囲の反発を受け、違うと攻撃されることもある自分。
そういった『自分』について、「どうも元の私では駄目らしい」という判断を"自分が"行った上で、それを否認しているんですねー。

否認の為に、『まんまでは駄目なのだ』という考えを誤魔化す為に、過剰に自己を演出する人が現代には沢山居ます。
凄いと言われる職業を目指したり、立派と言われそうな行動を取ったり、短絡的に自慢を繰り返したり、他者を攻撃し続けることで正当性を主張しようとしたり等、手段は色々です。
でも全部が全部、「私は駄目な人じゃありません! そう言ってよ!」という必死のアピールなんです。


現代日本では自己愛型パーソナリティの人が激増していますが、大体の構造はこのような感じだろうと思われます。
肥大化した自己承認欲求は、隠し持つ自己に対する否定的な思考から来ています。
それを隠し、誤魔化し続ける為には、手っ取り早く目立てばいいんじゃないか、一番になれば、特別だってことになれば…と考える人が多いんですね。
それを動機(=目的)にして、職業や交友関係等を選ぶ。

マインドタイプがそうでないとしても、例えば「あら~親孝行ね~素晴らしいわね~」と周りから言われるようなことを日頃から真面目に行う人であっても、その源はここから来ている…ということはよくあります。
善行に見えることについては、形だけ見ると否認が元だとは分かりにくいことですが、している本人が苦しい(幸せでない、または平常心でない)なら、それは自分の中にある自己否定を誤魔化す為に行っている行動です。
『愛されたいから』と言うよりも、『私は愛されていないに違いない、という怖れの思考』を隠蔽したいんですね。
あ、「だからやっちゃダメ」と言うことではありません。土台に使う思考のお話ですよ。


これらの言動の根底には、上記のように元々の自分に対する駄目出しが横たわっています。
だから結果から言うと、やればやる程「素の自分では駄目だ」と繰り返し言っていることになってしまいます。
どうにか形だけ作ることが出来ても、その職業に就いたとしても、相当苦しいのではないかと思います。
自己否定の為に生きていることになるからです。

こういった苦しさや無力感を感じる(抑えていたものが顔を出す)ようになって来ると、火が点いたかのように逃げ出そうとします。
或いは、他者に転嫁して攻撃をすることも多々あるでしょう。自分の抱える苦痛を、家族や、周囲の人に向けるんですね。
でもこれをやってしまうと、また隠さなくてはならない罪の意識が増えてしまいます。
逃げなきゃ、これは自分じゃないってことにしなきゃ、隠さなきゃと思うからこそ、また攻撃を他者に向ける。
罪の無い他人を攻撃するから、余計自分が嫌になる。無限ループと言う訳です。



一般的には「誰かに凄く嫌なことを言われた(された)から、自分には価値が無いと思うようになった」説が有力ですが、人によります。
一見それがきっかけに見えたとしても、抑々自分の中に自己を否定する思考が無ければ、そんな風には思いません。
きついようですが、周囲からの影響を受けるかどうかでさえ、実は自分の思考に関係があります。
なので、その考えに至る理由やプロセスがどうであっても『"私が"そのように思っています』ということが大前提になります。

ここで他人のせいにしてしまうと回収不可になりますので、どれだけ嫌な思いをしたかに関わらず、最終的な結論をそこへ持って行きたくなる思考には要注意です。
ただ、もし仮に「嫌で堪らない、こんなに辛い思いをさせられた」という気持ちが強いようであれば、先にそちらへ目を向けられた方が良いです。
「何を理由にそんな風に思うのか」「どのような考えを溜め込んでいるのか」について、よくよく詳しく見られたら良いですね。
この辺はその人の状態、理解の段階にもよります。



「これは自分が思っていることなのだ」
「私は私に対してこんな考えを押し付けているのだ」

という理解まで漕ぎ着けることは、何に於いてもとても大切です。
何故なら、自分の思考ならば自分の意思さえあれば変更・修正が可能だからです。

これが他人の…となると、先ず無理ですよね。
如何に自分に正当性があるように見えても、他人様がそれに同意して下さったとしても、無理です。
例えば相手と死別していたり、今や何処に居るかも分からない人のことだったら、それこそ変化は絶望的ということになります。


でも、自分の中にある考え、自分に対する自分の考えに絞るなら、自分と向き合って苦痛を生み出す考えを手放し、正しい思考に戻せば良いだけです。
もしも今まで苦しい思いをして来たのなら、「私が元々の自分をちゃんと認めてあげられるように、自分を見直そう」と決断する所からです。
必要な手段は必ず与えられるでしょう。

そうして、『私が元々の私を認めます、自分で自分を否認し攻撃していたことを撤回します』という所まで修正が進んだら、ものすごーくラクになると思います。
無理して自分以外の何者かを演じる必要も無くなり、のびのび生きられることになるんじゃないでしょうか。




前回書いた記事の何となく続きです。



あれが問題だこれが問題だと言う時、集約されるのは何かと言うと、「私は愛されていない」という怖れの思考です。
自己申告の際は愛してくれない人や周りが悪い、というような言い方になっていることが多いとは思いますが、実際の思考は「私は愛されるような人間ではない。だって酷いから。悪いから」ということです。
これを『奇跡のコース』では怖れの思考、分離しているという思考、総じてエゴと言います。

人生で多いのは、親子関係にこの思考を投影することです。
自分の親に対して持った考えを、成長して行くと共に配偶者やパートナー、上司や先輩等にも重点的に流用しがちですね。


『親に~~された/言われた/して貰えなかったから、私は傷付いて親から愛されていないと思うようになった』
という定型文が一般的に流布していますが、これは実は後付けの場合が非常に多いのです。

元々私達は潜在的に恐怖心を持っていて、この恐怖が上記のような『私はきっと愛されない人間に違いない』という思考に相当します。
抑々自分でそのように思い込んでいる為、それっぽい親の言動等によって、「"やっぱり"そうなんだ!」と解釈するのです。
そうです、「やっぱり」と接頭語が付くのです。

また、私達は自分で自分を裁く思考を使ってもいます。
「あんなことをしたから、私は悪い人だと思われたに違いない」
「あの時こうしておかなかったから、きっと嫌われたに違いない」
「こんな目に遭うのは、自分が悪い人間だからだ」
「こんなことが起きたのは、自分が罰されているということだ」
「こんな風に自分が辛いのも、仕方ないよなあ…」
等々、日々自分を裁いているのです。
裁きの思考は非常に深い意識レベルで発生しているので、「そういうものだ」としか思っていないのではないでしょうか。



私達は、これらの怖れをどうにかしなければと思います。
罪の意識、恐怖心を持った時、次から次へとああしなきゃ、こうしなきゃ、逃げなきゃ、隠れなきゃと思います。
自分が攻撃されると思うからですね。

それを避けなければならないと衝動的に思う為、じゃあ、凄い人だってことにしたら大丈夫かな、私が可哀想な被害者だってことにしたら自分の正当性が立証されるかな、無かったことにしちゃえばいいんじゃない? 見なければいいんじゃない? 覚えてないってことにしちゃえば、あっちが悪いってことにしちゃえば…等々、様々な防御方法を編み出そうとします。
自己処罰欲求が強い人の場合は、自分を責め続けて不幸になろうとします。
どれも自分の抱いている怖れの思考から行う行動です。



このような怖れを土台にして生きてしまうと、とても辛く苦しい人生になります。
例え形が整っていても、何でも手に入って困ったことが無いのだとしても、自分だけが苦しいです。
自覚症状が無いのだとしても、心は悲鳴を上げています。
それは、生きる目的が怖れからの逃避、ただ一点のみに絞られているからです。
毎日やることなすこと、全てが逃げ回っているだけのこと。愛を感じるどころではありません。

幸せが軸じゃないんです。怖いから逃げなきゃ、辛いからこれをどうにかガードしなきゃ、という軸です。
「怖い」という思考で一杯で、ずっとそこにフォーカスしていることになりますから、幾ら逃げてもガチガチにガードを固めても、周りから人をシャットアウトしても、逆にイエスマンばかり揃えたとしても、ダメです。
やればやる程、使っている思考を強化します。


怖れのフィルターを通して全ての物事を見るようになるので、如何に幸せであっても満ち足りた生活をしていても、絶対に満足しません。
不平不満を数え上げては、「こんなに不幸なのだ」と怒り狂って言い続けることしか出来なくなります。
それらの不平不満を、次々に誰かや何かのせいにし続ける必要が生まれ続けます。
小さく縮こまって、震えて暮らして行くしかないと思うかも知れません。
一体何の為の人生なのかと、考えることもしないでしょう。

きっといつか自分の正体が露見するに違いない。
とんでもないことになるに違いない。
一生を掛けて、それを誤魔化さなければ。逃げなければ。
…そんな風に怯え続けているのです。



誤魔化しぶりを徹底させて来た人程、この内容を聴いても「は?」と首を傾げることになるでしょう。
「だって、あっちが悪いんでしょ?」とすぐさま反駁して来るでしょう。

他者を罰している思考を使う時、とてもラクになったような見せかけの感覚がありますが、実際は苦しいです。
スッキリしたような気がしても、その裏側で後ろ暗い気分を増幅させています。
だから余計に中毒のように繰り返します。この繰り返しには出口がありません。泥縄です。


自分は自分の正体がばれてしまうことを怖れているのだと、先ず認めましょう。
私は自分を弱いと思っていて、あれもこれも怖がっている。
とても恐ろしいことが起きるのではないか、と思っている。
自分は愛されるに値しない人間なのだ、それが真実だった、というのを確認したくなくてこんな風に生きている。

何もかも怖くて堪らず、それを他者に見せられない。隠して逃げるばかり。
だからこれまでは、虚勢を張って平気なふりをしたり、何ともありませんという顔をして突っぱねてみたり、自分で何でも出来ると強がってみたり、また逆切れをして相手を酷く罵ってみたり、暴れ回って問題を起こしては被害者ぶってみたり、人と関わらないようにしてみたりと、そんな痛みの伴うやり方しか思いつかなかったのです。

だからあんな風に、誰かに対して「なんでもっと優しくしてくれないの!?」と当たり散らし、「どうせ私のことなんかどうでもいいんでしょ!!」と怒鳴り付けてみたり、完全に無視して相手がこの世に居ないかのような振る舞いをしてみたり、自分の方が上なのだと威張ってみたり、私はこんなに優れているのだというアピールを繰り返していたんです。
そうせずにはいられない程、またそうすることで「自分は愛されるに値しない人間に違いない」と叫び続けていたのです。





でも、別の道があります。
これまでの繰り返しは、ただ恐ろしくて繰り返して来ただけなのだ、だから私はどれだけ怯えているのだろうということを認めたら、「これを繰り返さなくても良いのかも知れない」「こうでなくても良いのでは?」と思ってみましょう。
繰り返す必要はありません。こうである必要は全くありません。
「いつもそうなっちゃう」のではなく、自分が怖れに操られて選んで来ただけなのですから、怖れを手放して愛や喜びを選べば良いのです。

選び直すには、先ず愛や喜びが見えないように遮っている"怖れの思考"を直視する勇気が必要です。
その気持ちと共にじっとしている忍耐が必要です。
いつもは弾かれるようにして逃げ出していたのを堪えて、留まることが大切です。
何度も嫌になって繰り投げ出そうとするでしょうが、その度に自分を励ましてリトライし続ける努力が重要なのです。

これまでは自分の持つ思考から逃げる為、否定する為だけにあらゆる手段を使って来ましたが、これを反転させる必要性があります。
だから『怖れを手放す』というのは、これまでの自分にとっては物凄く嫌なことである筈です。
途中で逃げ出したくなります。「でも、生活は出来るし」「これまで何とかなって来たし」「別に困ってないし」というような、如何にもな台詞を言い出すでしょう。
それも踏まえた上で、抵抗し続ける自分をじっと静かに見つめながら、着実に歩みを進めて行かれるのが結果的には幸せへの一番の近道です。



そうして、「ああ、私はそんな風に怖がっていたんだ」とハートから共感しなければなりません。
「ふーん、そうなんだ」「多分、怖がってるんだろうな」と、遠巻きに他人事のように眺めていてはいけません。
例え他人が分かってくれたとしても、自分が分からなければ意味の無いことです。

「生きていられて嬉しい、自分で生まれて良かった」というような幸せを、またこれまでの怖れを覆すような愛される喜びを体験する人生がもしあるなら、それをやってみたいなという気持ちを持たない限りは、難しいことです。
「そんなことある訳がないじゃん」「やっぱり怖いから嫌だ」と捨ててしまうと、その時点でこれまでのループを選択したことになってしまいます。


とは言え、苦痛の繰り返しはその内段々と嵩を増して行き、何れ耐え難くなる時がやって来ます。
怖れを手放すまでの時間が長いか短いかの違いでしかありません。
手放すまでは怖いし苦しいですから、その時間は短い方が良いですよね、ということです。

選べます。
今すぐか、もうちょっと後か。もっと後か。別の人生に持ち越すか。
「今すぐでも良いんじゃない?」と、自分に語りかけてみても良いかも知れませんね。




プロフィール

Sachi

blog owner:Sachi
潜在意識を活用した、ちょびっとスピリチュアルな総合セラピー、癒しのワークショップ・タロットカードセッションをしているSachiです。
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旧blogタイトルは『気づきのステップ』。

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