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resonance/ライター&セラピストの潜在意識とかちょびっとスピとか現実とか

◆ Infomation

【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 2017年12月17日、2018年1月21日(全て日曜)
 の開催が現在確定しております。
 ※12月は開催時間、料金が通常時と異なります。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

大分気温が下がって参りましたねー。
気付けば11月も下旬に入りました。もうすぐ12月! ですね!
皆様、暖かくしてお過ごし下さいませ。



普段、何事も無くルーティンで生活している折には意識されませんが、私達は心の中に『自分は無力である』『自分は足りない人間だ』『自分は無価値だ』という思考を抱えています。
そんな中、非常事態が起きたりすると、それが目の前に突き付けられたように感じるのです。
そうして、弾かれたように動き出そうとします。「どうにかしなきゃ」と。

何をどうにかしなきゃいけないのかと言うと、このずっと隠していた無価値で無力な自分を、それによって感じている疾しさや後ろめたさを誤魔化さねばと思う訳です。
自分だけでなく、誰か(家族や近しい人)が大変な状態である時もそうです。
「役に立たねば」
「何とかしてあげなきゃ」
と焦ります。


でも、大体どうにかは出来ません。
何かを肩代わりしたり、引き受けたりするという『形』に纏わることは、何か出来るかも知れない。
でも、その行動の背景にある「自分はどれだけやっても足りないのだ」「こんなことしか出来ないのか」「こんなに酷い」という自分に対する思考自体はそのままなので、苦しいと思います。

その苦しみから逃れたくて、またその自分を責め苛む考えに操られて衝動的に行動してしまうと、結果は動機の通り…つまり自分が苦しむ、自分の足りなさを嘆くという結果を体験します。
後ろめたい気持ち、無力感を穴埋めしようとする時は、フォーカスしている先が無力感や疾しさですから、見ている通りの結果を私達は体験するんですね。
何故なら、心(思考)が見ている先に向かって私達は進み、心の通りの体験をするからです。
それが物理的な現象であってもそうだし、精神的な状態でもあっても全く変わりません。


こんなことも出来ない。
こんなことしか出来ない。
私はこんなに足りていない。

ということが事実として認められない時、そんな価値の自分が後ろめたいあまり、それを誤魔化そうとします。
外側を動かそうと躍起になったり、人を助けたくなったりしたら、実はその背後には自分に対する無力感、無価値観と裁きの思考が隠れている。
この、自分では未だに認められないことを、他人様や外側の何かを使って誤魔化そうとしている。
動き出そうとする前に踏み止まって、それを疑いたいと思っています。


「何とかしなきゃ」
と言う時、焦っています。何故焦っているのか。
状況は幾らでも出て来るでしょう。
だって時間が無いし。だって今こんな非常時だし。他にやる人が居ないから。

でも、本当は『こんな状況・状態を目撃・体験してしまった自分の価値』『何も出来ない、足りない、何が出来る訳でもない自分』から目を背けたくて焦っているのです。
そのままにしておくと、何かとんでもないことになってしまうに違いない。という大きな恐怖に飲み込まれて怯えているのです。


過去を振り返って自分の反応やその前後関係を見直すと、大体そうだったなーと思います。
私はそういう、何も出来ない自分が、何の役にも立たない自分が非常に疾しかったのです。
そのままで居るなんて、とてもとても恐ろしくて出来ませんでした。
こんな酷い自分をそのままにしておくことなんて、とんでもない。何かしなくては、と。

「何も出来ないんです。だから何の価値も無いんです。そんなの嫌だから、何か価値を付けなくては」
「何か出来ることがある筈だ!」
ではなく、『何も出来ないな~』というのがもしも本当の事なら、
「確かにな~。本当にそうだわ」
と頷くだけです。だって事実そうなら、ただもうそれだけですよね(笑)。
仮に何か出来そうなことがあるのなら、それを粛々とやる。ただ、やる。以上。です。

私の場合ですが。
「それが事実だったわ。そういえば私はずっと、元々そうだったもんなー。出来ることは無いけど、あってもこれ位ですかねー」
と気が付いてから、以前のように「なんでこんなに何も出来ないんだろう」と自分を裁いて苦しむことが大分減りました(ゼロになったと言う気は全然ありませんけども)。


『自分はこんなに足りない。なんて無価値なのだろう』
という思考を使っていると、幾ら何をやっても「自分は足りない。無価値だ」とリピートし続けます。
「何かもっと出来ることがあったんじゃないか」
「あれではダメだったのではないか」
という台詞が、ずーっとぐるぐるします。
これ以上出来ない、と思う程にやっても、足りなさを責め続けます。

その思考に出口はありません。
やってもやっても、苦痛は減りません。別の手を使っても、別のことをしても、変わりません。
自分の心を見よう、本当のことを見直そうとしない限りは。



良い悪いのジャッジを挟むこと無く、ただ「そうなんだな」と事実をそのまま受け止めるというのが、実は我々にとって一番難しいことのように思います。
特に、自分についての事実ですね。
自分を何者だと思っているか。自分にはどんな価値があると思っているか。
既に自らがその考えを持っていながらにして、それを見ることを厭うあまりに、様々な問題を起こしたり、苦しんだりします。

怖れて逃げ回るのではなく、抑え込み誤魔化すことに労力を費やすのではなく、ただ
「ああ、そうなんだな。事実こうだな」
「私は自分のことをこんな風に思っていたんだな」

と素直に見つめ、認めることを心掛けて行きたいと日々思っています。




去る11月5日は、11月度のワークショップでした。
御参加下さいました皆様、まことに有難うございました。




自分の思考と現実との関係にギャップが大きい程、日々の中で感じる怒りや疑問が大きいものと思われます。
○○が欲しい、ああなりたいと強く望んでいるのに、ならない。
こう言われたいのに、言われない。
自分はこれを望んでいたのに、なれなかった。挫折した。辛い思いをした。失望した。


なんで?


…こういったことは、多少なりとも願望実現を試して来た人にとって、共通の疑問だと思われます。
この謎を解明する為に、つまり「やはり自分の思考が現実を創っていました」ということを理解する為に、今回は色々と学んで頂きました。

理解を進めたいのは、『常に入力通りに出力されている』ということですね。
これを理解するには、【顕在意識と潜在意識は大体に於いて別物である。私は潜在意識の思考を理解していない】ということを踏まえなくてはなりません。


「私はこう思ってるのに、ならないなんておかしい!」と言う時、顕在意識で喋っている状態です。
現実とリンクしている潜在意識は、全く反応していないんですよね。
しかし、顕在的に「こうなる筈なのに! あれが欲しいのに!」って感じでウキーと怒っている時は、何か理由があります。
「そうであってくれなければ自分が困る」という理由があるんです。

これは潜在的な思考とは全然関係ない所のお話です。
しかし、このような顕在的な思考に関しても、丁寧に紐解いて行くと、何故そんなに焦ってキレているのかが見えて来ます。
「こうなりたい、そうじゃなきゃ絶対に嫌だ、困るんだ、だって……」という理由が。


とは言え、それでもやっぱり『あれもこれも、自分の思考の入力通り』なのです。
認めないとか信じないとか言っても、特にこのルールが変化することは無いし、自分が怒って抵抗してみても(←やってました 笑)何も変わりません。
本当にそうなんです。本当に。

これについて理解の仕方は人によって様々でしたが、「……あ!」という体験をされた方もいらっしゃいました。
「凄い! 本当に入力通り、そのまんま自分の思考通りなんですね!! あー、だからか~!!」と。
他人様の語る言葉を聴いて、分かった! という方もいらっしゃいました。
ワークショップは複数人でワークを行うので、他人様を見て理解するというのが醍醐味ですねー。


それから、『他人様から言われる自分についての様々な内容には、何故ばらつきや違いがあるのか』といった件についても、謎を解明しましたね。

「私がセレブと結婚したいと言うと、Aさんは『うんうん、カッコ良くて凄く優しい人が向こうから現れて、何でもやってくれると思うよ!』と言うのに、Bさんは『…うーん…どうだろうね…現実的じゃない気がする』と微妙な反応。
色々な人に訊いて行くと、反応はこの二通りに何となく分かれます。
なんで二手に分かれてるの? 他人の意見って自分の潜在意識の声じゃないの?
どうしてばらけるんだろう? どっちが本当?
自分の気持ち的には、良いことを沢山言ってくれるAさんを信じたいんだけど、Bさんはどうしてああ言ったの?
そうだ! 私のことが嫌いだから言ってるに違いない!」


なーんて疑問も、解消されたんじゃないでしょうか。
多少なりとも潜在意識についてのお勉強をして行くと、当然こういった疑問が出て来る訳です。
潜在意識の思考でさえ、統一されていない。どっちがどっち? 本当はどっちなの?
Aさんはどうしてああ言うの?  Bさんは何でああ言ったの? それぞれ、何を表しているの?

…こんな風に、どうして意見が割れるかも、ちゃーんと理由があるんです。
どちらがどうかの見分け方もあります。
どっちが自分にとって本当に正しいかを見極める方法もあって、練習次第で分かるようになるのでございますー。


現実を直視し、一つずつ自分について正しく理解して行く為の一助になりましたら嬉しく思います。





以下、現在確定しているワークショップのスケジュールです。



★2017年12月
日時:12月17日(日曜) 11:00~19:00
テーマは『私へのプレゼント』です。


今年一年間を通じて開催して参りましたワークショップ、今回でラストです。
一年の最後、締め括りに相応しい大きなギフト、理解、癒しを受け取りましょう。
今年どうしても手放したいこと、どうしても理解したいこと、どうしても達成したいことを、自分へプレゼントしましょう♪
平時より長い時間を使いますので、より深い癒し、理解を体験出来るお時間になることでしょう。



★2018年1月
日時:1月21日(日曜) 11:00~15:00
テーマは『新年のギフト』です。


新しい年の始まりにあたり、過去の繰り返しではなく、より素晴らしいギフトを宇宙から受け取りましょう。
「欲しい!」と頑張るのではなく、力を抜いてリラックス♪
怖れや飢餓から欲するのではなく、ただ『信頼して、受け取る』。
あなたの幸せだけを願う宇宙から、一体どのようなギフトがやって来るのでしょうか。
この簡単なようで難しいような? ワークを織り込み体験しながら、良い一年のスタートを切りましょう。


※各ワークショップの詳細情報はサイトをご覧下さいませ。


以降は決定次第更新して参ります。


11月に入りました。
巷は明日から連休ですね。行楽のご予定がおありの方は、楽しんで下さいませ。
お勉強やお仕事の方は、それぞれ捗りますように。




物事を体験・目撃した時、人それぞれ何らかの解釈をします。
物凄く大雑把に分けると、自分にとって良いこと・悪いこと・どちらでもないことの三種類です。
これをどのような基準で振り分けている(そう、能動的に振り分けています)かと言うと、自分の中にある『怖れ』に抵触するかどうかです。

『良いこと』は、怖れや自分が隠したいことを隠せるもの。自分を正当化出来て、自分に価値が付くもの。
『悪いこと』は、怖れが剥き出しになってしまうもの。自分が悪人・無価値になってしまうもの。
『どちらでもないこと』は、そのどちらにも加担しないもの。
大体、こういう風に分けています。


日頃のあらゆる体験によって、私達は自分の価値を測っています。
『良いこと』を体験した時、心の中で何が起きているか見直してみると分かり易いでしょう。

よーくよーくじっくり見て行くと、自分を価値の無い、欠損した不完全で罪深い存在だと思っており、そこから生まれる怖れ(裁かれる恐怖)を一時的に覆い隠して「私はそんな人ではない」と言えそうな気がするから、『良い』のだということにしてある。
身も蓋もない話ですが、本当に殆どがこれです。


私達の人生は、欠けている自分を補完する為により良いもの、より良い生活、より良い自分を追い求めることが大半です。
あれが足りないから、これが不足しているからと周囲を見渡して不満に思うのなら、それはそのまま自分に対する不満だと言えます。

○○が足りないのが嫌なのではなく、『あれが足りないという体験をしている価値しかない自分』が嫌なのです。
親に愛されていないのが嫌なのではなく、『親に愛される価値も無いような自分』が嫌なのです。
褒めて欲しいと思う理由は、褒められたら幸せだからではなく、『褒められる価値の無い自分』が嫌で、それを隠したいからです。


でも、体験される時はまるで外側に欠損や問題の元があるかのように見えてしまう為、外側を捻じったり攻撃したりを繰り返し、どうにか変えようと試みるんですね。
実際それによって何をしたいのかと言うと、不完全で罪深い、また無価値な自分を否定したい訳です。


「○○になりたい! ○○をやりたい! ○○が欲しい!」
と言う時、それが元々自分の中にあると確信していることを表しているのか、或いは自分には『元々』それが存在しないから、それを得ることで別の何か――――前よりも少しはマシなもの――――になろうとして、つまり無価値な自分から目を背けたくて言っているのか、そのどちらかでしかありません。

で、驚くことなかれ、大概は後者です。本当に。
だから、何を手に入れても何になったとしても、満足が続かないんです。
抑々、自分が自分そのものに対して無価値を宣告しており、ちょっと何があったとしても直ぐそこに戻ってしまうんです。
で、また何かを得よう(誤魔化そう)と藻掻く…というループに入ります。砂上の楼閣ですね。




奇跡のコースは、難解な言い回しと言える文体が特徴の書籍です。
概要編である『テキスト』と実践編である『ワークブック』に分かれていますが、どちらも必要な人には素晴らしい教えに相当します(スピ初心者の方や、願望実現系ばかりに特化して来た方にはあまりお勧めしません。序盤で意味が分からず投げ出すことが殆どだと思います)。
『ワークブック』は一年間を掛けて自我の思考体系に気付き、手放して行く為に使う独習書です。

大変素晴らしい書籍なのは確かですが、「なんでこんなに面倒な言い回しなんだろう」と思う人は、少なからずいらっしゃることでしょう。私も「うーぬ…」と唸りながら読んでいました。
これが難解な理由は、「自分を見直す為にじっくり時間を掛けなさい」という呼び掛けではなかろうかと思います。
「分かりにくいなあ」と思う時、何度も読み直し、時間を掛け、自分に当て嵌めて見直すからこそ、徐々に理解出来て行く。


何事も同じですが、「そっか、分かった~」とインスタントに分かった振りが出来るようでは、身に付いたとは言えないですよね。
インスタントに分かった気がする時というのは、過去(これまで)の自分に正当性があるような気がする時です。
これは『コース』の教えとは真逆を行く考え方で、自我万歳の考え方です。苦痛を延長します。

「色々な本を読んで分かったような気がしたのに…」というお話もよく伺いますが、何故こういう風になるかと言うと、自分の思考体系に当て嵌めて見直していないからです。
本を見ながら自分の思考に気付いて手放すことが目的なのに、ただ字を目で追って「なるほどー」と言う為に読んでいるとなると、本末転倒になってしまいます。
要するに目的が何か、ということです。使う為に読むのか、読む為に読むのか。



自我の思考体系とは、上記のような怖れの思考体系、欠乏の思考体系です。
この考えに乗っ取られている限り、私達は何千回転生しても怖れの輪から抜け出すことは適いません。
ずっと何処かが苦しいまま、足りない感じがしたままです。

『コース』でなくても、あらゆる有効的なメソッドは最終的に同じ所へ行き着きます。
即ち、これまで自分だと思っていたもの(自我)は自分ではなく、全ては自分の内側に存在し、あるがままで完全であると思い出せることが私達のゴールだということです。


この世界に居る間に、怖れの思考に気付き続け、それが自分の真実ではないと気付き続けること。
自分に対し沢山の嘘を吐いていたことに気付いて、それを手放して行くこと。
その絶え間ない繰り返しによって、何れ必ず正しい理解は訪れるということです。
「愛に目を向けましょう」と言うのは怖れに乗っ取られて生きている以上相当難しいことなので、「愛を見えなくしている障壁たる怖れの思考に気付いて行きましょう」ってことですね。

但し、これに気付くには常時自分の心に目を向けていなくてはならず、しかもその姿勢はシビアさを徹底せねばならず、そのように目を向け続けるにはこれまでの繰り返しや自分自身に対し、いちいち疑問を持たねばなりません。
「そういうもの」とか「私ってそうなのよー」で終わってループする限り、気付くことは絶対にありません。
況してや、「これは認めたくない、見たくない!」という考えにしがみ付いている限りは、喜びを体験することなど当然不可能です。
また、時間は何も解決しません。心を使わない限り、形がどうであっても本当の解決は望めないのです。


自分の考えに目を向け、気付き、手放すというのは、ただ文章にするとそれだけのことですが、大変面倒なことです。
そんなのめんどくさいし、つまらないし、嫌な思いをするし、よく分かんないし、何がいいの? そんなことより、美味しい思いを追いかけた方がよっぽどいいじゃん。大体、今フツーに暮らせてるし、困ってないしー。

と考えるのもご尤もです。ですよねー。って思います。
それに、現代日本には目を向けて気を散らせるもの(他人様がその最たるものです)が山程ありますから、そんなことをせずとも飛ぶように時間は過ぎて行きます。


それもまた、選べます。これまで通りの繰り返しだけで生きて行くか。
それとも、自分が何を怖れて、何を認めたくなくてこの人生を逃げ回っているかを直視するのか。
私の体験から申し上げますと、余程のことでも無い限り、自分の生き方そのもの、思考体系そのものを見直そうとは思わない筈です。

追い詰められてどうしようも無くなった時に、漸く嫌々重い腰を上げるのが人間です。
何故かと言えば、真実に到達するまでの間は長く隠していた闇に向き合い続けなくてはならず、そんなものは誰だって嫌に決まっているからです。
だからこそ、今のような人生を作っている訳ですしね…。



とはいえ、やはりいつでも選択の余地はあります。
繰り返すか、違う見方で自分を見たいと望むのか。
その選択の為に、時間が、人生があるのだと言えるのではないかと思います。



現在、台風が通過中でございます。大雨です。
お外にお出掛けの皆様、お気を付けてどうぞ。




『過去の凄く嫌な出来事』や『自分が体験した事件』等を繰り返し思い出すこと、ありますよね。
凄く恥ずかしかったとか、腹が立ってどうしようもないとか、悲しかったとかそういうことです。
出来事自体は昔のことなのに、ふと思い出される瞬間があり、リアルにその時の感情を体験する。
でも、嫌だから即座に抑え込んだり、また逆にその状態の中に長く居ようとしてしまう。

過去のことなのに繰り返し思い出すというのは、自分の中でそれが終わっていないからです。
それについて、正しい理解に至っていない、正しく認めていない(否認している)、因果関係について理解していないということです。
何十年も前のことなのに、何度も何度も同じように腹を立てて人に話すとか、ありますよね。
「あの時、私だけこういう目に遭って、凄く嫌だったのよ!」とか。ネガティブな思い出話を何度もしてしまう。
自分は過去のことだと思っていないんです。終わっていない。


完全に自分の中で正しい理解に至ると手放してしまうので、思い出すことが難しくなります。
"えーと、どうでも良いです"、"確かにそういうこともありましたが、それだけです"という扱いになり、「うーん…」と頑張って思い出すような感じになります。

これは、「嫌だから忘れたことにしちゃえ」「見たくないから抑え込む」ということとは根本的に異なります。
思い出したとしても、感情が湧かない状態です。
似た状況を忌避したり、逃げ回ったりということもしません。不要だからです。
だから過去の記憶を現在に引っ掛けているものは何かと言うと、『感情』なんですね。


何らかの感情(例えばモヤモヤとした感覚)を伴って過去の出来事を何度も思い出す時というのは、『まだ理解に至っていないんだよ』というサインです。
その出来事に関して、正しい理解、正しい認識をしていない。
ちゃんと認められていないことが残っている。
そういうサインなんです。

或いは、あまりにも「なんにも覚えてなーい」というのも、大量の未処理の出来事が詰まっている証拠です。
特に、「自分がどのような振る舞い、言動を取っていたか」についての記憶が無い、という場合。
これは『自分にとって都合が悪いから忘れたことにしてある』とうものではなかろうかという感じです。



見直すにあたって、例えば。
『本当は仲良くしたかったのに、喧嘩ばかりしていた』という出来事があるとすると、「自分は仲良くしたかった訳ではない」ということになります。
事実は喧嘩ばかりだった訳ですから。自分も揉めていた訳です。
操られていた訳でもなく、実際に揉めてばかりいたと言うのなら、そっちが目的だったことになります。
本当に「仲良くしたかった」のなら、『仲良くした』という結果を出しています。

自分の中の定型文で「私は本当は仲良くしたかったのだ」というものを作ってしまうと、「自分は被害者」といった形を作り上げることになります。
そうすると解決が困難になりますから、まずは実際に自分の体験したこと、やったことを事実として据え直す所からです。
この事例の場合は「私は何故、喧嘩ばかりしたのだろう。それは何の為だろう」と問い直すのが正しい見直し方になります。


誰にとっても過去の出来事というのは、後々自分の思考の中で編集・改竄を加えて別物に仕立て直してしまうことがよくあり、その結果事実の姿形を変えてしまっている、というケースは珍しいことではありません。
こうしてしまうと、手放すとか認めるとかいう処からはどんどん遠ざかってしまいます。

繰り返し何度も思い出す嫌な記憶は、事実を正しく認めていない、正しい理解をしていないということ。
「あの時、私は凄く嫌だったんです」というようなことを言っている間は、何かちゃんと見ていないものがあるということです。
だから、正しく見直そう。正しく認めよう。という姿勢を持つことが重要です。


まずは、『繰り返し思い出している』ことに疑問を持つ所から。
「これは何か、自分がまだ見ていないものがあるに違いない」と。
これまで使って来た言い回しを脇に置いて、見直すこと。そこからです。



旧体育の日ですね。東京は気持ち良く晴れております。
確か、例年この日は晴天が多かったような気がします。
お外の気温も上がっております。あついー秋じゃないー(笑)。



10月8日は10月度のワークショップでした。
ご参加下さいました皆様、まことにありがとうございました。


「これまで色々なセミナーに参加して来ましたが、衝撃で椅子に打ち付けられるような体験は初めてでした」
「物凄く濃い日でした」
「驚きのあまり身体が…こんな反応を自分がしていたことにもびっくりです」

といったご感想を、多数頂いております。


今回は"繰り返す過去"がテーマでしたねー。
私達は全く現在を生きてなんぞいないのだ、リピートしかしてないんだよねーということ、また
『どうしたら単なる繰り返しを完了させ、現在に戻って来ることが出来るのか』
ということについて、学びました。

更にその日の最後の最後、ドカーン! という仰天体験もあり、全員が全員、椅子に座ったままショックの余り吹っ飛んでいました(笑)。
そのショックの度合いはと言えば、車に乗ってぶいーんと走っていて、突然何か激突したかのような衝撃度でした。凄かったです。
これは私も全くの予想外でした。不思議なお導きですわ~。


潜在的な知覚を顕在的に自覚するまで、足かけ11年でこの日やっと解明…という体験をされた方も居て、
「あー、そうだったんだ! やっとこれでリピートしなくなるわー!」
というお話も出ました。

そう、私達の中にある情報は、繰り返し再生され、体験され、自分でキッチリ理解し完了させ手放すまで、延々とリピート再生されるのです。
何年も、何十年も。また、別の人生にも持ち越します。アホかーって言う程、繰り返します(笑)。
「分かった! って思ったのに、なんで変わらないの?」と言う場合、解ってないんです。
だから繰り返します。その理解自体が間違っている・情報量が足りない・自覚に足る部分が少なすぎるということです。


逆に言うと、繰り返し遭遇する(前触れ無く外からやって来る)パターンがあったり、繰り返し同じ反応をする(嫌だとか辛いとか腹立つとか、それまでと全く同じ反応をする)自分が居て…というのは、間違った考えを自分が持っており、それを使い続けているという証拠です。

これらの間違った思考を自分が手放す為に、態々体験しているのだと言えます。
大概は繰り返している間に慣れて行って、その内に疑問を抱くことすら無くなって、「私っていつもこうなんだよねー」とか言いつつぐるぐる過去を回っているだけになっちゃうんですけども…。


図らずも、想定外の過去について大きな理解に至るという面白い日でしたねー。
まさしく、テーマに沿った一日と相成りました。





さて、年内12月までのワークショップについて、確定致しましたのでお知らせでーす。


★2017年11月
テーマ:『心が現実を創る』
日時:2017年11月5日(日曜) 午前11時~午後3時(4時間)


私達の心こそが、毎日の現実を創っています。
納得行かない所がある、理解出来ない所があるとしても、実際のルールはこれです。
上手く行かないこと、思い通りにならないこと等もあります。
自分は一体どのような理由でこの現実を創っているのか、見直す機会を持ちましょう。
自分の心と現実の関係性を解き明かし、より幸せを受け容れるスペースが作れるように学びを進めて参ります♪



★2017年12月
テーマ:『私へのプレゼント』
日時:2017年12月17日(日曜) 午前11時~午後7時(8時間)


今年一年間を通じて開催して参りましたワークショップ、今回でラストです。
一年の最後、締め括りに相応しい大きなギフト、理解、癒しを受け取りましょう。
今年どうしても手放したいこと、どうしても理解したいこと、どうしても達したいことを、自分へプレゼントしましょう♪
平時より長い時間を使いますので、より深い癒し、理解を体験出来るお時間になることでしょう。
※12月分は時間・料金等の詳細が通常と異なりますので、ご確認下さい。


ワークショップについての詳細は、サイトをご覧下さいませ♪




10月に入り、ぐっと秋らしくなりましたねー。
温かいものが美味しい季節です。



私は最近、何かを食べたり飲んだりする時に、クリーニングしてから…という風に実験、実践するように心がけています。
勿論、これまでも単に食べられることについてであれ、美味しいものを口に出来ることであれ、常に飲食の有難さは感じていましたし、感謝して頂いていたのですが、『クリーニング』という視点でというのは、ここに来て改めて…という感じです。
※『クリーニング』については、ひとつ前のこちらの記事をご参照下さいまし~。

パッと見で「おいしそー♪」と飛び付いても、口にする前にその対象に意識を向ける。
その結果、「……あれ?」というのは珍しくないんだな、ということが分かりました。
見た目はとっても美味しそうだし、顕在的には本当に良く見えていても、じっと"それ自体"に意識を向けると、なんかトゲトゲしている…とか、食べ物自体が怒っている、ションボリしている…といった様子の違いが見えます。
勿論、幸せそうな飲食物も沢山あります。
同じ種類の食べ物でも、一つ一つ違いがあるんですねえ…(今更 笑)。


例えば複数ある食べ物の中から選ぶ時も、顕在的に頭で考えるのではなく、あっちはどうかな? と見るように気を付けています。
"あっち"=飲食物=自分の潜在意識、です。

多少時間は取りますが、そうすることで如何に顕在意識と潜在意識が乖離しているかに気付かされます。いつも割と乖離しておりますー…。
「いつもなら絶対選択肢に入って来ない!」というギャップが激しい程、自分の中で二つの意識が乖離していることになりますね。
二つの意識を擦り合わせして行くことは、幸せにとって最も重要なポイントですので、ちょっと手間でもそこは意識的にコツコツと。

いえ、そりゃ「めんどくさいよー」と思う時も沢山ありますけど。
過去の反復でつい手に取ってしまう、という方がラクな気がしますけども。
しかし、こういうことも地道な訓練がものを言うのは、これまでの歩みで実証済みです。コツコツちまちま、です。



クリーニングとは、物事に付随したネガティブな情報(潜在的な情報)を中和・消去させる為に行うのであり、実際は物事そのものをクリーニングするのではありません。
物事そのものを捻じ曲げる為、無かったことにする為、思い通りの結果を出す為に行う、ということではないんですよね。

更に言えば、対象物に宿るネガティブな情報とは、自分の意識内(顕在意識・潜在意識)に存在している訳です。
その情報を体験しているのは"自分"ですからね。
だから結局、物事についてクリーニングするということは、自分自身をクリーニングすることになります。


顕在意識から見てみましょうか。
食べる時ひとつ取っても、私達は様々な思考をくっつけます。大概はネガティブな思考です。
こんな物を食べたら、こんな時間に食べたら太るんじゃないか、栄養が足りないんじゃないか、身体に悪いんじゃないか、等々。
もう本当に、流れるようにネガティブな思考を沸かせています。
自分の思考に注意を払うと、大量の思考を付着させていることが分かりますので、食べ物を見てから口に入れるまでの一連の思考を度々観察してみられると良いでしょう。

そのまま何もせずに口に入れるというのは、その思考(怖れや罪悪感)を食べたり飲んだりすることになるので、いずれその結果を体験をするだろうなと、私は色々腑に落ちてしまいました。
常に思考があって結果が存在している訳ですから。
健康について神経質なタイプの人は、怖れを見ていると思われるケースが多いので、なんだか納得です。
勿論、病気や怪我の全てがこれと直結している訳ではありませんが、とは言っても無関係とは到底思えません。


潜在的には、その飲食物そのものを見て、どんな様子かな~? というのを確認する所からですね。
事物、現象である『あっち』が自分の潜在意識ですから。
で、怒っていたり悲しんでいたり、目の前に来た時は諸々あるでしょうが、それが本来の状態、あるべき姿に戻ってから頂くのが正しいように思います。
ネガティブな状態のままだと、やっぱりネガティブな思考を食べたり飲んだりしていることになっちゃいますからね。

どうしてその飲食物がネガティブな状態になっているのかについて、私達は顕在的に知ることは出来ませんが、それらは様々な人の手を通って私達の前にやって来るので、そこまでのプロセスで不要な情報がくっ付いている可能性は高いでしょう。
作った人が凄く凄く怒っていて、不満タラタラだったらその情報が色濃く乗ります。
或いは、作物が栽培された土壌の情報なんかも関係あるので、色々な要素が混ざった末に、かも知れません。
そのまま食べると、その情報を食べていることになります。幾ら栄養学的に良い状態があったとしても、です。


しかし、対象物についての自分の思考をクリーンにして、対象物の情報を正常化させてから飲食すると、「私は愛を食べている。私は愛を飲んでいる」ことになります。
この世界で私達が目にしている、体験していることの全ては思考ですから、思考の結果が思考です。
動機と結果はイコールですから、怖れの結果は怖れだし、愛の結果は愛なのです。

自分の意識状態に気を付けるようにすると、日々愛の体験を増やすことが出来ますね。ちょくちょく忘れますが(笑)。
飲食物については毎日のことですから、その結果が何処でどう出るかは分かりませんが、まあ原因を変えたら結果も当然変わりますわなー。
食べる時だけでなく、他人様に何かを差し上げる時も、本当に気を付けようと心を新たにしました。


こうやって自分の思考と向き合うことを知ることが出来て、本当に有り難いな~と思っています。
昔は「でも、じゃあどうしたらいいの? 解ったからってどうにも出来ないじゃん!」って、嘆き悲しんでいました。
どうにも出来ない、無力な自分が凄く嫌いでした。
今も無力であることはそうなんですが(笑)、様々なことを学んだ結果、事象や自分の思考についての捉え方、向き合い方、接し方が変化して来たのは本当に有難いことです。
感謝感謝、ですね。



近年、『ホ・オポノポノ(セルフ・アイデンティティ・スルー・ホ・オポノポノ/SITH)』が大分広まって来たような気がします。
関連書籍も沢山出ていますね~。

個人的なお勧めはこちら(左から順に読むと分かり易そうです)。


       

他にも関連書籍は色々ありますよー。




基本の基本は、「ありがとう」「ごめんなさい」「私を許して下さい」「愛しています」の四つの言葉(ツール)を使うことで、"自分の思考をクリーニングする"というもの。
クリーニング対象は物事に対する自分の反応(解釈)と、物事そのもの、どちらもです。
顕在意識と潜在意識のどちらも自分の思考である為、全てが対象ということです。

特に自分の反応(顕在意識)をクリーニングすることは重要です。
私達は兎角、外側の現象や対象(何処で何があったとか、誰々がこう言ったとかいうこと)にばかり目が行ってしまい、自分の反応を見落としがちなので、自分の思考を念入りに観察し続けて一つずつクリーニングするということですね。
真面目にやっているつもりでも、かなり見落とします。訓練が必要です。コツコツ続ける。
上記の他にも、クリーニングツールが年々生まれ続けている模様です(最近になって凄く増えていることを知りました)。


『ホ・オポノポノ』は願望実現、引き寄せとは全く違います。
が、「欲しい」「必要」「なりたい」「したい」といった欠乏の思考のクリーニングを続け手放して行くことで、宇宙的に正しければ色々やって来る、変わるという結果にはなる。
という意味で、自分の心が平和になるにつれ、豊かさや幸せが増加するものではあるでしょう。

しかしあくまで『自分の心が平和になること』『愛から離れていた自分が愛に戻って行くこと』そのものが目的です。
自分の反応や思考パターンを置き去りにしたまま物質的・状況的な変化をさせることが目的なのではありません。
形や物質や状況の変化は二の次と言いますか、心が修正されたことによる副次的な産物であると言えましょう。
ここを取り違えない方が良いです。ホントに。



改めて見直して思ったのが、『ホ・オポノポノ』は『奇跡のコース』と非常に似通った哲学を骨子に持っているということです。
我々の目的は"自分の考えを絶え間なく手放して行き、取り消すこと"であり、その結果にゼロに至る、愛に戻るというもの。

何故自分の考えを消去するのかと言うと、私達の思考(記憶)こそが愛を遮る障壁だからです。
また、私達が目撃し体験することに新規のものは一切存在せず、全ては過去のリピートでしかないということも同様のスタンスだなと思います。


私が見る限りでこの二つの最大の違いは、『コース』が「この宇宙、世界は抑々実在していない。全て幻想である」と断言しているのに対し、『ホ・オポノポノ』ではこの宇宙に実在性(Identity)を持たせているという部分でしょうか。

但し、"我々が目にすること、体験することの全ては自分の心の中(潜在意識)で起きていることであり、全ては自分である"という部分は一貫して共通しています。
ですから、
「自分が体験すること、それについての思考に自分で責任を取る姿勢が重要である」
「日々、自分の中にある間違った考えを認め、悔い改めることで人生を良いものに"戻して"行く」
という点も同じです。


基本的には自分で自分の中を見詰めて行く、観察を続け、気付き、心の中に隠れていたものを認め、手放して行くというやり方も、大体一緒(ホ・オポノポノでは手放す補助として、クリーニング用のツールを使います)。

誰かにやって貰うのではなく、人のせいにすることも出来ず、例外は存在せず、言い訳は通用せず、ただひたすらに独習し実践し続けるものです。
色々突き詰めて行くと、元は同じと言うか、真実は一つなんだなーと思います。




ところで『ホ・オポノポノ』では"全ての物にはアイデンティティが存在する"という考えが前提にあります。
だから、書籍を読んでいると"物と会話することが可能である"というくだりが度々出て来ます。
昔はよく分かっていなかったのですが、最近になって「そうだ、喋れるんだった…」と思い、試してみました。



もしもーし。



……。





ワー…本当に喋ってる……(ハニワ顔)。



……。




マジで!?






…何と言うかものすご~~~~く、今更過ぎてどうなんだって話なんですが、正直とってもびっくりしました。
「そ、そうか…この物体も私の(潜在)意識だもんな…そりゃ喋るし意識もあるわな…いつも普通に分離してるから忘れてるけど」という理解に後から至る。そしてまたすぐ忘れる(笑)。

人様の潜在意識をリーディングしたり、ということをやるようになっている為、本当に盲点というか今更感で一杯です。
勿論、昔は全く出来ませんでした。っていうか、多くの方と同じく意味が分からんかったですよ。
「物と会話するって、なんじゃそりゃ」と、ちんぷんかんぷんでした。


物と会話する、意思の疎通を図るというのは、言い方を変えると
『自分の顕在意識が、自分の潜在意識と会話している』
『私の顕在意識が、私の潜在意識をはっきり見ている』

ということです。

顕在的に「多分、こう言っている筈だ」と自己都合で捏造したり、妄想することとは根本的に違います。
こっちは否認が根底にあって、『事実を見ないようにしている』ということになりますから。



因みに私が会話を試みて自分の思考と対象物を同時にクリーニングした所、壊れかけていたと思しき20年ものの機械が直ったり、萎れていた植物がその場で蘇ったりしています。
物事と自分の反応とをクリーニングする⇒溜まっている要らない情報が取り消される⇒それ本来の正しい姿に戻る…というプロセスですから、直ることが正しいなら直るし、蘇ることが正しければ元気になる。ということなんでしょうねー。

先日はコンビニでおにぎりを買おうと思って、陳列棚を見ていたのですが、その時思い付いて"あっち"は何て言ってるかな? と見直してみました。
そうしたら、顕在的には全くノーマークだった梅干しおにぎりが「買え―」と強くアピールしていたので、私の潜在意識は梅干しおにぎりを欲していたということに…無論、自覚も無ければ理由も分からないんですが(笑)。


このようなコミュニケーションをすると、自分が如何に潜在意識(事実)に対して目を向けていないか、如何に何も見ずに否定ばかりをしているか、ということに気付かされます。
いつもは、何の根拠も無く分かっている気がしているだけ。
でもそれは気のせい、思い込み、甚だしい勘違いであって、事実とは関連していない。ということです。

何故、昔は分からなかったのにその後分かるようになったのか? そういう専門の訓練をしたの? という話ですが、"そういう訓練"はしていません(あるのか無いのか知りませんがどうやるんだろう…)。
宇宙の神秘を解き明かした訳でもなく、スピリチュアル的に特別な修行をしたのでもなく、単純に自分の事実に気付く、事実を理解をするという繰り返しを続けているだけです。
その結果、なんかこんなことにー。


気付いて来た"事実"の中には、一見して目を背けたくなるような痛い内容も沢山ありました。
社会的な一般論で言うと、信じない人も沢山居るだろうな、ってこともよくあります。
しかし綺麗ごとを片っ端から捲り、長年使い込んで来た「~の筈だ」「こういうもんだ」を引っぺがし、誰がどういうコメントをしようが、納得行かない限りは「なーんか変だなー、おかしいなー」と事実を求め続ける。
結果、「うへぇ…これかい…」というものが現れたりします。
私はこっちの方が多いかも…いや、大体これかな…(笑)。

痛くても何でも事実は事実なので、苦痛やショックを一時的に体験したとしても、いずれそれは通り過ぎ、「なるほど」という所へ落ち着きます。
そうすると、そこで手放した状態になり、嘗てどれほど苦痛に苛まれた内容であったとしても、以後全く動揺しなくなります。

苦痛を抱えているのは我々にとって正しい状態ではなく、絶望はゴールではありません。
私達は苦痛を体験した時、見詰めて手放すよりも誤魔化したり否定して覆い隠すことを選びがちです。
それにより更なる間違いを生み出し続けますが、これまでそうやって覆い隠して来たものを一つずつ解除して行く訳です。
事実に対する否定や間違った考え、防御の数々手放すと、ありのままの事実だけが残ります。結果、ラクになる。
これをずっと繰り返しているんですねー。




『ホ・オポノポノ』でも『コース』でも、
「私は何も分かっていません。これの原因を知りません。どう判断し、解釈して良いのか分かりません」
という姿勢を常に持つようにとあります。

私はこれの原因を知っている、自分はこれについて分かっている、私は自分のことを一番よく知っている、何でも分かっているという思考は、事態を混乱させて延長させる可能性が極めて高いからです。
要するに、「これこれが××なのは、○○のせいだ」「これはこうなる筈だ」という顕在的な考えは、大体違いますよってことです。
確かに私の経験上から言っても、違います。
「あれが原因に違いない」「こういう風にさえなれば良いのだ」「私はこういう人だ」と思うのなら、その思考もクリーニング対象です。
良いことも、悪いことも、自分にとっては当たり前過ぎて見過ごしてしまいそうなことさえも、全て。



本当に勝手な主観でものを書いておりますので、そこは本当に御承知頂きたいのですが、『奇跡のコース』は語調や文法、作りが全体的に固いと私は思っています。
本の装丁から見てもですが、表現も格調高いというか、高級な感じ(笑)。
『ホ・オポノポノ』は、庶民的で気楽な感じ。流石ハワイ発~。っていう印象です。
どちらから入っても良いでしょうが、敷居が低く解り易くて実践し易いのは、ツールが沢山用意されている『ホ・オポノポノ』かな? と思います。

しかしこのどちらも、愛が私達の為に形を取って現れたものです。
その時の自分の理解に応じて、またどちらも相互補完的に活用して行かれたら宜しいかと。
自分の心を平和へと導くツールであることには変わりないので、有り難く使い続けて、平和を沢山体験したいですよねー。


プロフィール

Sachi

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潜在意識を活用した、ちょびっとスピリチュアルな総合セラピー、癒しのワークショップ・タロットカードセッションをしているSachiです。
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絶対的な事実という訳ではありません。
また、私の理解や気付きの段階に応じ、記事の内容にも随時変化がありますことを何卒ご理解下さい。
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