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resonance/ライター&セラピストの潜在意識とかちょびっとスピとか現実とか

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【works】
★ヒーリングセラピー個人セッション
 都内で対面式の個人セッションを行っています。
 幸せと癒し、学びと気付きを得たい方へ、様々に対応させて頂きます。
 潜在意識を日常へと活用することで、より良い人生へ変えることが可能です。
 随時お受けしておりますので、サイトをご覧下さいませ。

★癒しのワークショップ
 毎月一度、都内で女性向けの体験型ワークショップを開催中です。
 沢山の変化・癒し・浄化・成長・気づきを促すテクニックが山盛りです。
 現在、お客様からのオファーで行うオーガナイズ形式での開催です。
 ※以降の開催は決定次第upして参ります。
 ※それぞれ内容の詳細はサイトをご参照下さい。

7月も半ばに入ろうとしておりますね。
如何お過ごしでしょうか。




『ホ・オポノポノ』では、クリーニング対象についての注意として、

『出来事そのものではなく、自分のリアクションをクリーニングしましょう』

と説いています。


何故かと言うと、自分がそのリアクションを持っていることにより、逆説的にそれを言うような出来事を作っているからです。
取り消すには、出来事そのもののみならず、自分がその時に持ち出した反応・リアクション(コメントや気持ち、言い訳等)の方に注目して、そのリアクションに責任持って取り組むことが重要であるということですね。



例えば、誰かに何かを言われたとしましょう。
その時、ついつい「あんなに酷いことを言われて傷付いた。相手が悪いから、相手を対象にクリーニングして取り消せば、この現象は無くなるのだ。相手が変わるのだ」と考えてしまいがちです。
この前提で色々やってみても、多分変わることは無いと思われます。
何故なら、その体験を作り出しているのは自分の潜在意識なのに、出元はほったらかしで末端だけどうにかしようとしているからです。
自分でしている入力作業は止めないけど、出力だけ止めたい、ということですが、それは無理です。

実際に現象だけが外側に単体で存在する、ということはありません。
自分が体験し、目撃し、聞いている以上は、自分の中にあるものを映し出していることになります。
「酷い! なんでそんなことを言うの!?」や「相手は私のことをこう思っているに違いない」等々、色々な反応が次々に自分の中から湧いて来ていて、その思考が受け皿として先に存在していることで、後から乗っかるべき現象を見ている、ということなのです。


現象が先にあって…というのが常識的なものの見方です。
誰もが、発生した後の現象をどうにか捻じ曲げようとしたり、これから起きるか起きないか分からない現象を操ろうと腐心しますが、あまり意味は無いと思われます。
実際にそれが起きて、自分が反応してみて初めて「ああ、こんなものが自分の中にあったのだ」と気付く為、事前にコントロールするというのは不可能なんじゃないでしょうか。

これまで溜め込んだままの過去を振り返り、「あの時、こう思った」「あれを思い出すと今でも嫌な思いだ」といったことを一つずつ丁寧にクリーニング作業をして行くと、段々身軽になって行きます。
結果、「自分の中にあったから、それを体験したのだ」というのがイコールで理解されて行くようになります。
取り消したものについては、もう元ネタが自分の中に存在しなくなる為、発生しなくなります。
「またああなったらどうしよう」と心配になる方がいらっしゃるなら、それも反応なのでクリーニング対象ですね。



一例ですが。
例えば子供さんが居て、何かを改めずにいることで親である自分は繰り返しギャンギャン怒ってしまう。
「何であんたはこうなの!!」と毎日毎日怒鳴り散らしていて、ほとほと困っています。ということがあるとしましょう。

まず取り掛かるべきは、子供に対する考えのクリーニングです。
この時、「子供を何とかしなきゃ」「ウチの子は何度言っても分からない子なんです」「こんなに怒って疲れる」「嫌になる」等というような反応が沢山ありますね。
これを全部、一つずつ手に取ってクリーニングして行く訳です。

これらの考えを『自分が』持っているから、その通りの体験をする羽目になる、という話です。
子供が言うことを聞かないから、じゃないんです。子供さんは、単に自分の考えを映し出す役割を引き受けてくれている。
自分を放置して、子供にああ言えばとか、こういう風に指導すれば…ということでもないです。
もしやり方を変えるのだとしても、自分のリアクション(思考)を同時に見直すことが必要でしょう。



顕在的な話でも似たようなものです。
文句をぶつぶつ言いながら、それでも全部やってあげてしまうなら、相手は「結局何もしなくていいんだ」という風に受け取りますね。
手を出すのをやめて、「ご自分でどうぞ」と言うなら、また違って来る場合もあるでしょう。

「あんまり言うと可哀想だから」と言って放置した時、もっと酷くなりました。
ということであれば、可哀想だとか放置するのは間違っていることになります。
自分の持っている考え、反応の方に目を向けて、現実との相関関係をよくよく見直したら良いでしょう。



自分が当たり前に使っているリアクションの台詞をキャッチするには、日常的に自己観察の訓練が必要です。
誰にでも「ここでいつもキレて終わる」「こういう言葉を使ってまた繰り返す」「私のせいじゃない!」「相手が悪い」というような癖がある為、人と会話している時の自分や、出来事を目撃・体験している時の自分の中を常に常に観察し、また毎日振り返って…ということを練習されるのが良いと思います。

「ついこう思っちゃう」「なっちゃう」と言うのなら、まさにその「ついこう思っちゃうんです」というコメント、「なっちゃう」というその反応をクリーニングしましょう。
そうでもないと、ただ過去をズルズルと垂れ流して繰り返すだけになってしまいます。
いずれは回収して行く道です。見直して拾うのが時間の節約になるので、是非お勧めします。(^^)


梅雨ですね。
程々の梅雨で終わると嬉しいものです(?)。





『自分の考えが自分の体験を作っていました』
という、心の世界の大原則に気付き始めると、「じゃあ、あれは? あれも? あれもなの?」という風に、順番に確認を始めます。
「『私』が、『私のことを』こう思っていたから、あの時の出来事はああだったんだ!」
という風に合点が行く、腑に落ちるということを繰り返して行きます。

意識層の浅い部分での考え(記憶)だと、比較的ラクに気付くことが出来ます。
自分で上乗せしている誤魔化しや転嫁の層が割と少ないからです。
自分で"自分の体験+それに纏わる自分の思考"の見直しをして、これを一枚ずつ捲って行って、ある時「えっ」という日が訪れることになります。「私だったんだ…!」って。
これを使った願望実現のテクニックが、所謂『引き寄せ』ですね。



さて、溜め込んだ自分の思考に気付いて行く作業を続けている内に、どんどんイヤ~な気持ちになる場合があります。
体験している現象に何か問題があっても無くても、関係無く、です。

イヤ~な気持ちが外に向かっている間は、それはそれで良いと思っている場合が多いんじゃないでしょうか。
敵は外に在り。私達は常にそう思っていたいからです。
しかし、過去の回収が進んで行く内に、それが実は自分の内側に向かっていたことが分かって来ます。



『問題とは不平不満のことです』
と、奇跡のコースには書いてあるのですが、私がこれを最初に読んだ時は「なんつーライトな表現だ」って思いました(笑)。

とは言え、自分をよくよく観察して行く中で、全ての問題の理由は自分の心の中にあると定義し、自分の体験と自分の心との因果関係を見つけて行くことになり。
「あっ、違う、私だよ…!」とヘナヘナになること幾度か…全部ですけど。
なので、刈り取り作業を続ける程に「ソウデスネー」って思うんです。ありゃー本当のことが書いてありましたわーって(笑)。


これまで引っ張って来た怒りや苛々なんかも、全部自分の中にあるものなんですよー。とか。
例えば急いでいる時に電車が遅れて大変な目にとか、そういったことも過去の記憶の再生なので、鉄道会社やその他諸々のせいにすることは出来ませんでした。
という風に分かって行くことになります。

一つの事象について「あれは私がそう思っていたからだ」ということに行き当たると、「でもあれは別」という風に分けることが出来なくなります(どうにか例外を作り、分けて取って置きたいものではありますが)。
んじゃあ一体、あれとこれの何処に線を引くの? って話ですよね。例えそれが他人様の言動であっても、です。
世界の裏側で起きている戦争であっても変わりはありません。
私達がみんなで記憶を再生し、過去に溺れているのです。


例えば上記のように戦争があるとして、闇雲に反対しても特に現象に対して干渉することは無いし、結果意味は無い。ということになってしまいます。
だって現時点で抑々戦争を作っている、その記憶を見ているのが肝心の私達な訳ですから。

既にあるものに対して抵抗をしても、それは抵抗にすらならない…という結果に。
じゃあ何になっているのかと言えば、時間を浪費しているだけ、ということになってしまうのです。



何が言いたいのかと言うと、自分個人の出来事でも全く同じなのですよ…。
自分がとても嫌な思いをしている、何か問題があって、或いはこうなる筈なのにならないから不満を抱えているという状態だとして、
「相手/周り(だけ)が変われば自分は幸せなのに」
または
「あれがこうなれば私は不幸でなくなるのに」
という話は残念乍ら成立しないんです…ということですね。


ちょっと飛びましたが、
外側に向けている不満は、自分に対する不満です。
これは自分を見つめる作業を続けて行く内に、段々と解って来ます。
『外側に対する不満の物量=自分への不満の物量』
です。
私達は不満を外側に押し付けたつもりになっていたいのです。


例えば自分のことが嫌いな度合いが極度に強い人は、他者への攻撃性やアピールが相当強いですね。あれもこれも否定します。
大嫌いな自分を見たくないから、外側のことばかりを見て自分を誤魔化してしまう。
誰かや何かを否定しまくるのは、同じ分量だけ自分を否定しているからです。

この場合、まず自分自身を嫌っていることを認める、嫌っている状態を受け容れる…という所(使っている自分の考え)にどうにかして漕ぎ着けないと、『ありのままの自分を受け容れる』というよく聞く場所へは行き着けません。夢のまた夢。
自分大嫌い度が高いと、それに耐えられず更に何重にも防御して行く為に、「私は自分が大好きなんです」という鎧を着込んでいたりもします。
または、「周りが如何に酷いか、自分が被害者か」バージョンの鎧で武装するかも知れない。
何にせよ、素の状態で居ることは不可能になります。
素直にするりと「有難い…」という体験まで到達するのは難しいことかも知れません。



更に記憶をクリーンにし続けて行くと、顕在レベルであれこれ頭を捻じったり、「どうしよう」と考え迷うことを段々やらなくなって行きます。
「ああなったら嫌だからどうのこうの」というような迷いが減ったりもします。無駄だというのが段々分かって来るからです。
「そうだ、抵抗しても時間の無駄なのだ。私はいずれにせよ未処理の自分の記憶を、間違ったままの自分の考えをただ目にするだけなのだから、行くべき所へ行って見るべきを見るだろう」と考えるようになるのです。

事実、今回の人生で『新規で起きる出来事』というものはありません。僅かなことでさえも。
認め、手放してゼロになった状態にしか、新しいものは入って来ないのです。
「今日、転んで怪我をしました。痛いよーと泣きました」という体験は今日したんですよ? と言いたいでしょうが、単に覚えていないだけでいつかの再現です。
記憶の出元があるのです。ですからクリーニングがお勧めです。


間違いを訂正しないまま持ち越した自分の心を糺す為に、私は必ず見るべきを見て、知るべきを知ることになるに過ぎない。
その為に、居るべき場所に居るのだ。いつも、いつも。


そう思えるようになって行くと、自分と周囲の境界線に掘っていた深い溝を埋めて、目を閉じ耳を塞ぎ「私は関係ないの!」と言っていたのを止めて、様々なことを自分の心の中として見るようになります。



ある場所に足を運んだり、持ち込まれた話があって乗っかったりして行くと、場合によっては「えっ」というショックな出来事や、「そんな馬鹿な!」と叫びたくなるような、イヤなことが起きたりもします。
それは何であれ、自分の中にある過去の記憶なのです。今、偶々発生した訳ではありません。
いつかもそんなような体験をしたか、少なくとも似たリアクションを取った出来事があったんです。
で、その後のリアクションが間違っていたから、持ち越して来ていると。

リアクションの訂正=心の修正ですから、自分がした反応を捉え、クリーンにした上で、正しい心の状態に直す。というのが必要なんですね。
こういったことを繰り返して行く中で、段々と本来あるべき正しい自分の心に修正が進んで行きます。


時々道程を振り返ると、「あの時の自分は酷かったなあ」と思うかも知れないし、「あの時分からなかったことが、今は分かるようになった」と思うかも知れません。
誰かに対して「本当に申し訳なかった」と思うかも知れません。
或いは、「ああいう風に思う必要は無かったんだ」かも知れません。


一つずつ、手に取って確かめて行く。
地道な道程で確実に浄化を進めて行きたいものです。



今回は、私が大昔「この違いがよく分からないなー」と思っていたことについて書いて参ります。


昔の私は、「自分がそれを欲しいと思わなきゃ、ならないじゃないか」と思っていました。
「"欲しい"を手放す? じゃあ、永久に自分の手元にそれは来ないってことですよね?」って。
だから手放すなんてジョーダンじゃない、って思っていたことがあります。

思考の仕組み・作用を理解していなかった、という理由でこんな風に考えていたんです。
否認・欠乏によるニーズと、自分の中に元々あるものを確認することの違いを全く理解していませんでした。
何か既にある体験を否定する為・誤魔化す為に上乗せ用のニーズを持っていて、それが執着であり、そのニーズがある限りは絶対に自分はその体験が出来ないのだ、ということが分かっていなかったんですね。


だから根本にある考えは『現実の否定』であって、実際はそれ自体が欲しいのではなかった、という訳です。
否定するには否定するべき事実が必要ですから、否定を続ける限りループを続けます。
自分は求めているのではなく、否定しているのだと分かれば、何を否定しているのか、何を誤魔化したいのか見ることが出来ます。

そこの見分けが出来ていれば早かったなあ、と思います。
自分が願っていることが否認由来であるかの簡単な判定基準は、それを想う時に怒りや苦痛が伴うかどうかで直ぐ分かります。




世に言う『引き寄せ』は今回『願望実現』と同ジャンルと見做しますが、これはざっくり纏めると『上乗せ方式』の考え方です。
あれが欲しい、あそこに行きたい、あれになりたい、等々。
これは、『自分本体』はそのままで、これにプラスして服をどんどん着込んで行くようなイメージでしょうか。
先に着ていたものはずっと着たままで、また上着を欲しいと言う。どんどん増える。溜め込んで行く。
元の自分の体型が見えなくなっていて、それでも更に着込む。どんどん着込む。もう着られませんー。


『ホ・オポノポノ』や『奇跡のコース』はそれとは真逆で、『お掃除方式』です。
私達は既に物凄く沢山、「これ以上無理ー!」って位に着込んでいて、本体が見えない位着膨れしているから、先ずはパンパンになっている服を脱いでどんどこ捨てて行きましょう、と。
脱いで行くことで元々の体型や体質がやっと見えて来るから、そこまで行って初めてそれに合った服を選び直せますよ…って感じでしょうか。
『引き寄せ』が足し算なら、『ホ・オポノポノ』『コース』は引き算です。


ここで言う"服"は"過去、記憶"のことです。
既に私達は過去の記憶を身に着けたまま記憶と一体化しており、それを自分だと思い込んでいます。
また、昔歩んだ道程を外れることなく、また同じ考えのままで同じように歩んでいます。

全く同じ歩みをしている以上、同じ結末を迎えてしまうのは確実です。
だからその状態で「あれが嫌だ」とか「あれが欲しい」と言ったとしても、それは今の素の自分が思ったのではなく、嘗ての記憶にある台詞をそのまんま喋っているに過ぎないのだ、ということです。



願望実現も、やってみたら楽しいと思います。
でも、ならないことも沢山あります。限界があるでしょう。
そこを素直に受け容れられるかどうか、そこに正しく疑問を持てるかどうかで、また先行きが変わります。

間違いの上には間違いしか乗って来ません。途中で「やっぱりあれで良かった」にはなりません。
これを巻き戻して手放すことで、身軽な素の自分に戻れます。
だけど間違いをそのままにして、その上に色々なものを載せても、下にある間違いが消える訳ではないですよね。


私達は怖れや苦痛を隠したり、誤魔化す為に、様々なものを望みます。
苦手なものは苦手だという認識のままで変えることなく、永遠に避け続けて生きて行きたいのです。
怖いものに手を突っ込んで分解するのはどうしても嫌だから、です。
そんな理由で、あれがあれば、これが起きれば、あれを避け続ければこの恐ろしさから逃れられるんじゃないか。これを認めないで済むんじゃないか。無かったことに出来るんじゃないか。等々を並べ続けるんですね。

となると、欲する抑々の動機が苦痛や怖れになりますから、一所懸命色々なメソッドやツールを使っても、フォーカスしている所に着地する羽目になるのです。
それは自分がそこに一点集中で注目しているから。
喜びや幸せを受け取るのとは、別次元の話になってしまいます。


特に『奇跡のコース』では、私達の本質は完全な愛であり、欠けたり足りない箇所の無い完全性が本体であると述べています。
これは、私達が日頃特に疑うこともなく使っている「無いから欲しい」「あれが無いから不幸だ」「足りないから外から得なければならない」という考えとは真っ向から対立します。

自分が抱えている『私は不完全です、怖れです、欠けています、足りません、過去です、"今"ではありません』というその考えを本当に抱えていると認め手放して行くことで、本体が段々見えて来ますよ、ということを教えている訳です(その理解の為に『ワークブック』があり、日々の心のトレーニングの実践を推奨しています)。

結果、どんどん本体にあたる幸せや愛を受け取れる(外側に見る)量が増えて行く、そういうことですね。
私達はこの世界で、自分の内側にあるものを外側に映し出して見ているに過ぎません。
自分の抱える不要な思考が整理されて行けば、当然外側に見出すものは内側にある整理された心…ということになるのです。



一つずつ見て、認めて行くことで、どんどん理解が速くなって行きます。
「あの時に自分が望んだものは、怖れを隠したいからだったのだ」
と分かって行くと、取っ組み合いをする必要がなくなります。

欲しい、なりたい、ならない…という考えが減って行くと、ラクになります。
自分の心をよく観察し、不要な物をどんどん捨てて行かれますように。




先日、新潟地方で地震が発生しました。
被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。



自分の体験していることと、その反応をクリーニングして行く、ということを日夜地道に続けていると、
「本当にあの体験は、自分の記憶だったのだ。私の中にある考えだったのだ」
という確認事項がどんどん増えて行きます。


私は自分の考えを見ている。
私は過去を見ている。
私は記憶を見ている。



本当にそうなんだ。本当だったんだ。
私がその考えを持っていたからなんだ。
毎日そう思うことばかりです。


となると、まだ未解決の事例や不可解に思って来た何かも、私の中の記憶なのだということになります。
つまり、「私がそのように想っている(このような記憶を持っている)から…」ということです。


私達はインスタントなアプローチを好みます。
一発逆転とか、全てをすっ飛ばしてとか、フィクションのように一夜にして…みたいなプロセスが良いのです。

でもそれは、自分が抱えている思考を全て無視して捻じ曲げる、という不可能な考えに他なりません。
自分で特定の考え(記憶)にしがみ付いておきながら、「これが嫌だから変えてくれ」と言う訳です。
「今の状態に関して、私には責任が無いので」ということですね。
毎日地道に自分で一枚ずつ伏せてあるカードを捲って行くのは、めんどくさいから嫌だって話です。


エゴはインスタントが大好きです。
エゴは「自分のせいじゃない」「私は被害者だ」と言い続ける為にこの世界を作ったので、目先だけ変えるような目眩ましが好きなんですね。
全て自分の中にあって、一つずつ…という考えは、エゴが最も忌避する考え方です。

一つずつ見て行く、確認して行く、事実を確かめて行く以外に、過去をキャンセルすることは出来ないと思います。
世間には様々なメソッドやアプローチがありますが、結果を出す為の基本形はとにかく
『認める。手放す』
ということに尽きます。


「"私が"こう思っています」
「"私が"この考えを選んだのです」
「"私が"自分で、この考えを信じました」
「私が」
「私は」


というように、常に自分の中に理由を帰すことが大切です。
誰々が、とか何々が、じゃないんです。
「誰々が」とか「何々が」と第三者や自分以外の何かを主語にしてしまうと、「私に責任はありません」と主張していることになります。
となると、自動的に『自己による解決は不可能』という話になってしまいます。
何であっても自分の中にある記憶、選んだ考え、または信じたことが心の何処かに埋まっていて、それを体験している・見ているに過ぎないというのが本当の話です。


「これが良いと思っているのにならない!」
と言うのなら、「これが良い」なんて思ってはいないのです。
いやもう、本当にそうです。
「もしかして、そう思っている気になっているだけで、実はそんな風に思ってないんじゃないか?」と疑って自分の思考をじっくり色々な角度から点検してみると良いですよー。


自分が体験していることは、自分が信じていることです。
自分のことを振り返ってもだし、他人様を拝見しても同様です。
これが完全イコールだと分かるようになるまで、私は自己観察を沢山沢山練習しました。勿論、今も続けています。
完全に分かったとは到底言い難い状態ではありますが、これまで私が理解した中でこのルールを外れたものは一つもありませんでした。

『自分の心の中にあるもの、自分の考えを体験している』
と言われても、昔は「???」って感じで、全然分かりませんでした。ええ、意味不明でした(笑)。
「自分がこんなこと思ってるなんて、そんな馬鹿なー!」って。

…自分の考えを観察する、心を見つめるということの意味が分からなかったんですから当然ですね。
潜在意識とか、意識層の深さについても理解していなかったので、そうですねーそりゃ解らんよねって思います。
それから『全て未処理の記憶/過去』という概念(事実)も知らなかったので、この辺りが色々繋がって来てやっと「は!」って感じでした。


私達は日々当たり前に、ナチュラルにあらゆるものと分離した考えを使っているので、分離を取り消す訓練を重ねても尚、自分の体験について「これは私の考えです」から常に適用を外そうと試みます。
自分の中から適用外にしたものは、解決不可能に"自分で"指定したことになります。
エゴは例外が大好きです。何らかの防御や言い訳になりそうなもの程、後生大事に取って置こうとします。
そのまま、問題を問題のままに延長しておきたいのです。エゴは被害者で居ること(によって、外側を攻撃するの)が目的なので。

しかし、例外はありません。ひとつもです。
なので、「私は自分の考え/記憶を見ているのだ」と肝に銘じ続け、それが事実であると思い出し続け、その考えを毎日自分に適用し続けることが癒し、解放への近道になります。



ちょっとずつしか進まないよー! って感じもしますし、物凄く遠回りに感じることもあります。
「気が遠くなる~! 勘弁してー!」って思うことも、よくあります(笑)。
でも、それでも続けることが結果的には理解への最短距離なんだなと思います。振り返れば、ですが。
そんな風に思いながら、今日もクリーニングをして、自分のあれこれに疑問を持ち続けているのであります。(^^)



6月に入りました。そろそろ東京も梅雨入りが近いでしょうか。




先日は、オファーを頂いてのワークショップでした。
ご参加いただきまして、ありがとうございました。(^^)

その方の気付きや理解の進み具合によって、その時に最適な教材が現れます。
既に知っている気分で構えたり、自分なりに分析しようとしたりせず、フリーハンドで受け取って頂けることで、その時に必要な理解が得られると思います。



『他人が評価してくれない』
『親が愛してくれない』
『子供が言うことを聞かない』

等、「誰々(他者)が、誰々のせいで」と言う時、私達は自分とは切り離された外側で起きる現象を体験している被害者のような気がしています。


しかし実際は『自分に対する考えを見ている、体験している』以上のものではありません。
でもこの世界では、自分と他者は一つではなく、分離したものの見え方になる為、まるで
『自分とは関係の無い所から、全く自分の意思や気持ちとは関係無く』
物事が起きて、私達に嫌がらせをしているかのように思えます。
とは言えやはり、日々私達は『自分に対する自分の考え』を見ているのです。


先日ワークショップのプログラムを体験して下さった方から、お礼のメールを頂戴しました。

「(体験していることは)全て自分の考えでしかなく、自分でそれに全力でしがみついているだけだということ、自分の考えだからこそ手放せるし、変えられるということ、このことが、上っ面だけではなくちゃんと実感を伴って分かって、すごく救われた感じがしました。本当に、ありがどうございます。」

だ、そうです。


このものの見方は訓練が必要です。これまた地道な訓練だし、日々適用すべきものです。
その上、これまであらゆる自分の不都合を他人のせいにして来た人にとっては、「死んだ方がマシ」って位に嫌な作業になります(笑)。

嫌な作業だとは言うものの、事実確認の作業でしかない為、これが出来れば物凄く楽になります。
事実に対し格闘する必要が無くなって行くからです。

自らの不都合を他人に押し付けている時、まるで自分が楽になったかのような錯覚を起こします。
自分に問題は無い。自分は真っ白で何ら改める個所は無く、改めるべきは他者にある。
そう思おうとするのは、自分の中にある大きな劣等感、不都合、罪悪感、それらと一体になっている恐怖から逃れたいからです。


「自分は最初からこの程度だったんだ」とか、「こう思い込んで来た自分が間違っていた」というように、過去しがみ付いていた自分の間違った考えを認めて手放す時、他の誰でもない自分が楽になります。
それが出来る人は、自分を大切にし、愛する努力をしている人だとも言えるんじゃないでしょうか。
結果、自分の身の丈に合った人生や幸せを受け取れる訳で、現実を認める作業をすることによって、その後の幸せな時間が長くなるのですから。

自分はそのままで他人から無理矢理幸せを貰おうとしたり、力ずくで自分を認めさせようとしたり、他者に不都合を押し付けたり、自分が如何に不幸か他人に分からせようとアピールしたり等、自分の外側と格闘し続ける人は、それによって自分が幸せになる(抱えている不幸が消える)ような気がして行う訳ですが、逆です。
他人がどうのとか、それはああでこうでと言い訳をせずに、出来る限り速いタイミングで体験している事実を受け容れることが、愛や喜びを受け取る一番の近道だと思います。



「愛されたい」と思うなら、自分が自分にその姿勢を適用しましょう。
何よりもそのスタンスが必要です。
自分を愛してくれるのは他人ではありません。自分です。

自分を放り出して他者を、周りをどうにかしようとする時、自分で不幸を選んだことになります。
それはもう、間違いなく。
『私』は『私』にどういう姿勢を持っているかな? と見直し続けることが、幸せを受け取る近道。
是非、覚えておいて下さい。(^^)


お天気の良い毎日が続き、汗ばむ陽気になって参りました。
暦の上では初夏ですからねー。
もう暫く、過ごし易い陽気を楽しみたい気持ちです。(^^)



本日のタイトルはなんぞやー。ですが。


先日、個人的にイメージワークをしておりました。
心を残して亡くなった方の浄化の為だったのですが、やってみて私は
「やはり、思考は『もの』である」
と思った次第です。
潜在的な思考とは、実体がある、『物』です。

『思考は"もの"です』
と、潜在意識を使った願望達成の大家、ジョセフ・マーフィー先生は繰り返し仰っています。
これには「潜在意識の思考は」と前置きが付くものと思われます。


故に、
『自分の中にそもそも存在しないものは出て来ないし、作り出せない』
『自分の中で実体を持って存在しているものを、捻じ曲げたり無理矢理消すことは出来ない』

というルールが適用されると思います。

顕在意識だけでアファメーションをしても、暗示を掛けても、絶対に現実に影響しない理由はこれです。
「でも潜在意識って全部を含むんでしょ?」
と言われれば、その通りです。

だからって、自分という存在の範疇を超えたものは、自分個人の体験としては実現されません。
我々は『自分』という存在そのものに対する思考を山ほど持っており、これを超えたものは体験されないのです。
より"自分個人に近い思考"を現実として体験します。




冒頭の話に戻りますが、例えば「イメージで浄化しましょう」ということだとしても、その対象者が何を望んでいるか、何を最も求めているか等の条件によって、ルートは色々変わるものだなーと思う訳です。
似たような理由で未浄化の存在が別個に居るとしても、それぞれ違う相手ですから、違ったプロセスの浄化になります。
ひょっとして結果も異なるかも知れません。

そのプロセスを私個人が「これが簡単だからこれでいいや」と一括りに行うことは出来ないし、ワンパターンで同じやり方では浄化出来ないという本末転倒な結果になってしまいます。
どのような結果に至るとしても、あっちがそれを望んでいればいいですが、私が「えーこれがいいんじゃないの?」と勝手に思ったからって、あちらは違うかも知れないのです。


必要な情報を集め、色々汲み取って、一つずつ確かめながら、正しいゴールへ向かうお手伝いをしているんだなと思います。
その正しいゴールを、私達(顕在意識)は知りません。
また、相手が強く求めたからと言って、本当にそれが正しい収まり処なのかは分かりません。

如何に『自分の考えや推測』を脇に置きながら、最適な収まり処へ向かって行けるか。
という心構えが非常に重要なんだと思います。
「自分で強引にやろうとしてはいけないし、それでは結果が伴わない」
ということを肝に銘じなければなーと思います。

個人的に行うリーディングや浄化だけでなく、複数の人で行うロールプレイ等でも、全く同じです。
表向きのきれいごとや嘘を並べた台詞では、潜在意識(=現実)に対して何の影響も与えません。理解に繋がりません。
それが『もの』として認識されているかどうかによって、結果が変わります。
上辺の架空の台詞や他人の真似や方法では、絶対に結果に結び付かない。というのを覚えておきたいものです。



個人的な感覚ですが、潜在意識に『もの』として存在している思考については、私は質量をはっきり感じます。
意識の手を伸ばすと触ることが出来る、と言う位の実体感があります。
つまり「これは『もの』である」という認識をしています。

勿論、順番的にまだ手前の方まで出て来ていない(意識を伸ばしても触ることが出来ない)情報については、そのように感じないものですから、存在しているかどうかを断定せず保留にしておきます。
思考の層は順番に出て来るものなので、あんまり遠く(深く)にあるものというのは、「何かあるっぽいけど、遠すぎてよく分からないなあ」という感じです。
「でも何かある…」程度でしょうか。順番が来れば、いずれ浮上して来るのですが。

人によって感じ方は色々でしょうが、
『潜在意識の思考="もの"としての実体感』
を掴めるようになると、潜在意識についての理解がより深まるのだろうと思います。



5月も中旬に入ろうとしておりますねー。
過ごし易い気候で助かります。(^^)




私は昔、臨死体験をした方の逸話を色々調べていた時期があるのですが(私は未体験です)、『その後、人生観が変わった』タイプと『そうでもなかった』タイプに割れるらしい、というのを知りました。
何が分かれ目かと言うと、臨死体験時に何を見た・体験したかでその後が違うようでした。

人生観が変わった方の逸話では、『走馬灯タイム』があった、というお話がちょこちょこと散見されます。
死ぬと、人間は生前の行いによって裁判に掛けられ、自分の一生をほぼ強制的に見せられる…という伝承も世界のあちこちにあります。あれですね。
近年ですと、『中間生(死と生の狭間)に行き、ガイドがアドバイスをくれる』とか『何らかの気付きがあって』といったお話も多いです。



さてこの走馬灯タイム(または気付きタイム・ガイドからのアドバイスタイム)ですが、実際は何をしているのかというと、『主観で偏った・間違ったものの見方』で見ていた出来事について、『再度正しく見直す/見直して完了させる、手放す』機会を体験しているのでは? と私は思います。

とは言え別に臨死体験をしなくとも、死を待たなくても、一日の中でも自分でやろうとして出来ることだなーと思います。
例えば一日が終わる時、眠りに就く前に『今日の私』を思い返す。一日の自分を走馬灯タイムで見直す。



一日の終わりまで行かなくても、トイレに入った折にとか、お風呂に入った時にとか、お茶を飲む時にとか。
幾らでもそのタイミングは作れます。
これをしないで居ると、記憶に操られたまま記憶の中にある思考や感情を垂れ流し続けるだけ…ということになりかねません。

これを常時簡単に行えるのが『ホ・オポノポノ』のクリーニングです。
しかし、これもただ闇雲に言えば良いのではなく(それでも使わないより幾分マシかも知れませんが)、自分が体験した思考や感情を捉えて、それに対して使う…というのがスタンダードです。
となると、やはり問題(過去)を解除して幸せになるには"自覚的に自分の思考を捉ようとする姿勢及びステップ"は必須でしょう。




ところで、死んで実際に自分を振り返るのかと言うと、どうだろうなーと思います。
私は、死んだらほぼそのまま次の人生に持ち越す感じなのでは…と考えています。

何故かと言うと、自分も含めて色々な方を拝見していると、
「…同じだ。同じ過ぎてびっくりする位、同じだ。下手するとその場面の形どころか口に出す台詞まで完全に同じ」
という場面を度々見ているので、死んだら一度振り返りタイムがあって、そこで反省し、転生してやり直す…というのはファンタジー世界の話なのではないかいな~。と。

前回未完了のものは未完了のままごっそり持って来て、全く同じ再生を経ることによって「私の中にはこんなものがあるのだ」と気付く訳です。
そこで前回と同じ解釈に乗っかって全く同じセリフを言い、全く同じリアクションをしたままループに流れるのか、見直して見直して見直して自分の間違いを見つけ、正しく完了させられる考えに訂正するのかを自分でやり直している…ということだと思います。


「自由意志があるじゃないか」説も度々お伺いしますが、私達が持っている実際の自由意志というのは、「何でも選べて何にでもなれるよー」ではなく、『自分が前回間違った場面まで再生して巻き戻し⇒正しい選択肢を選び直す』ことをするのが今か、先送りか…というものに過ぎません。

今日までの分を今日(今)見直すのか、今やらずに明日以降に持ち越す(何も考えずループに乗っかる)のか。
っていうこれだけです。
自由意志でああしたんだ、こうしたんだと言う時、それは前回もそうしたからです。
少なくともそれに準えた選択をしたので、同じ台詞を言っています。
たった今、全てから自由になった状態で選んだものは無いのです。
前回もそうして、そういうリアクションをしたということは自分では覚えていませんが…でも確実にそうです。



先日「何でその場面を持って来るのか」というご質問を頂戴したので、私個人の回答をば。
人間と言うのは『良かったこと、楽しかったこと、良いこと』は直ぐ忘れます。
反対に『嫌だったこと、腹の立つこと、不条理だと思うこと、悲しいこと、無念なこと、疾しいこと』等については、何の処置も取らず後生大事にしがみ付きます。

だからです。

はい。これが答えです…(笑)。
誰かがチョイスして持たされて来たものなのではなく、"自分が"その記憶にしがみ付いているのです。


日本人だと分かり易い喩えになるかと思いますが、『未浄化の霊は未練があるから』『先祖の障りはその先祖が間違いを犯したか、未練が残っているから』という話がスタンダードですよね。
これも同じことなのです。未完了を残している程、人生は辛く苦しいものになります。

あ、『良い』と言われる思い出を持って来ることもあります。色々混ぜて来るのがエゴなので。
とは言え、圧倒的に不平不満の方を持って来る割合が高いでしょう。
自分の思考を観察する癖を付けて行けば、如何に不平不満で構成されているか分かります。


私がこういった本を読んでいたのは大昔なので、当時はちゃんと考えていませんでしたが、正直『死後の世界がある・無い』については個人的にどうでも良いことのように思います(個人的には潜在意識の中に概念として存在すると考えていますが…)。
それよりもやはり、現在自分の人生を生きている中で、目の前に来たもの・体験することを一つずつ受け止めて、認めて、クリーニングすることが重要なんではないかと。



一日ずつ、未完了を出来るだけ整理し直して、スッキリ終われるようになりたいものです。


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